薬師寺元一(やくしじ・もとかず) ?〜1504

細川京兆家(管領家)の被官。通称は与一。摂津守護代・薬師寺元長の甥だがその養子となり、管領の細川政元に仕えた。
明応8年(1499)9月、紀伊国から攻め上ってきていた畠山尚順が河内国誉田城主の畠山義英を圧迫すると、政元の命を受けてその救援に出陣し、尚順を紀伊国に逐った。
文亀元年(1501)12月に義父の元長が死去すると、摂津守護代を継ぐ。
文亀3年(1503)5月に阿波国に赴き、細川一族で阿波守護の細川成之の孫・澄元を、実子のなかった政元の養子に迎える約定を取り付けて帰京した。
翌永正元年(1504)9月、奇矯な振舞いの多い政元を更迭して澄元を京兆家家督に擁立しようとして山城国の淀藤岡城に挙兵した。
この動乱を衝くように京都では土一揆が蜂起したが、幕府は即座に徳政令を発して土一揆を懐柔するとともに、京都周辺の郷村に税の半額を免除することを条件に元一追討軍への従軍を募った。これに応じた住民兵や弟の薬師寺長忠など、多数の政元方軍勢に攻められ淀藤岡城は19日に落城し、元一は捕えられて京都に送られ、翌日に自刃した(淀藤岡城の戦い)。
辞世の句は「冥途にはよき若衆のありければ思ひ立ちぬる旅衣かな」といい、衆道(男色)に耽っていたことがうかがえる。