畠山義英(はたけやま・よしひで) ?〜?

畠山義豊(基家)の子。通称は次郎か。上総介・右衛門督。
畠山氏は15世紀半ば頃より畠山政長畠山義就による惣領の座をめぐる内訌が続けられており、義英はその義就の孫にあたる。
明応8年(1499)1月末に父・義豊が畠山尚順(畠山政長の子)と戦って敗死したが、その尚順を破って紀伊国に追い返した管領・細川政元の後援で家督を継いで河内・紀伊守護となり、河内国誉田城を居城とした。
永正元年(1504)に尚順と和を結び、義英が河内北半国守護、尚順が南半国守護となる。しかし、和睦した尚順が、かつて政元が政変(明応の政変)を起こして失脚させた前将軍・足利義稙と結んでおり、義英もその与同勢力と見なされて政元より追討を受けた。
永正4年(1507)6月に横死した細川政元の跡目をめぐる分裂抗争に介入したことを機として尚順との和睦は破れ、義英は細川澄元足利義澄陣営、尚順は細川高国・足利義稙陣営に与して戦う。
のち細川澄元・三好之長の畿内進出に呼応し、永正17年(1520)2月には越智家全と共に畠山稙長(畠山尚順の子)の拠る河内国高屋城を攻め落としてこれを奪ったが、同年5月に細川澄元に与して細川高国と戦って敗れ(高屋城の戦い)、紀伊国吉野に逃れた。
大永元年(1521)に稙長と和睦したが、その後の動静は不詳である。
なお、この義英を、子・義堯と同一人物とする説もある。