細川氏阿波守護家の被官。三好長之の子。初名を之長、のちに長輝と名乗る。主膳正・筑前守。
文明17年(1485)には細川成之・政之父子とともに在京しており、8月に京都で起こった徳政一揆を主導した。明応2年(1493)1月には阿波細川勢の中核を担って将軍・足利義稙の畠山義豊討伐に出陣したが、同年4月の明応の政変に巻き込まれ、辛うじて京都に逃れた。
永正3年(1506)に細川成之の孫である細川澄元が管領・細川政元の養子として上洛した際、その先陣を務めた。この後、澄元が摂津守護に補任されると之長は摂津(西)半国守護代の地位に就き、澄元の養父である政元の意向を受けて畿内を転戦した。
永正4年(1507)頃より、ともに政元の養子となっていた細川澄之と澄元によって政元の跡目をめぐる政争が激化するが、同年6月に政元が暗殺されると之長は澄元とともに、澄之方の香西元長によって近江国に逐われた。やがて政元のもう1人の養子・細川高国が澄元に味方して澄之を討ったので京都に戻ったが、その後に澄元と高国が対立するようになり、永正5年(1508)4月、澄元と之長は再び近江国に逐われた。
永正6年(1509)6月に高国と戦ったが敗れ、澄元とともに阿波国に逃れた(如意ヶ嶽の合戦)。
永正8年(1511)7月、主君の澄元は京都へ進撃して一時はこれを制圧するも、8月の船岡山の合戦で敗北して撤退を余儀なくされているが、之長はこの船岡山合戦には参陣していないようである。
永正14年(1517)9月、水軍力を強化するために友軍であった淡路守護・細川尚春を攻めて淡路水軍を勢力下に置き、永正16年(1519)11月に兵庫より上陸して要衝・越水城を攻略し(越水城の戦い)、高国を近江国に逐って翌年3月に入京を果たした。しかし間もなく、近江守護・六角定頼の支援を受けて逆襲に転じた高国勢と洛中で戦って大敗を喫し、5月7日に捕えられて11日に切腹を命じられた(等持寺表の合戦)。享年63。法名は見性寺希雲道悦。
武略に長けた武将で、細川澄元に従って上洛したのちは政元の信任を得て中央政界への進出を果たし、三好氏の威勢を大きく伸張させた。三好氏の伸張は澄元の勢力拡大につながり、澄元政権の樹立に大きく貢献したが、専横の振る舞いが強かったために有力被官の離反を招くこととなり、政権を長期に亘って保持することができなかった。