如意ヶ嶽(にょいがたけ)の合戦

管領・細川政元は嗣子がなかったため澄之澄元高国の3人を養子としていたが、水面下では次期家督をめぐって澄之と澄元、および澄之家臣と澄元家臣の間で反目が生じるようになっていた。澄之は細川京兆家(管領家)の家督を確固たるものにすべく、被官の香西元長薬師寺長忠に命じて永正4年(1507)6月23日に政元を暗殺、その翌日には澄元の居所を襲撃して近江国に逐い、家督を手中に収めたのである。
しかしその直後より高国によって反澄之勢力が糾合され、8月1日の遊初軒の戦いで澄之を滅ぼしたことで京兆家の家督には澄元が就くこととなったが、今度はこの澄元と高国の反目が顕著になったのである。
永正5年(1508)3月、高国は伊勢参宮と称して京都より出奔した。しかしその実は伊賀守護・仁木高長の許に身を寄せつつ、摂津・丹波国に兵を募るとともに畿内の国人領主らを味方につけ、澄元を攻める準備を進めていたのである。さらには澄元が推戴する11代将軍・足利義澄の政敵で、周防国に逃れていた前将軍の足利義稙大内義興の支援を得て上洛しようとする動きを見せており、内外に敵対勢力を抱えることになった澄元は、同年4月に近江国へと逃れたのである。
代わって入京した高国は7月1日に義稙を再び将軍位に就け、自身は管領となって細川京兆家を継承したのである。

近江国に逃れた澄元と三好之長の主従は再起を企てるが、両者ともに阿波国が本拠であったために畿内に勢力基盤を有しておらず、反撃に転じるには阿波国へと帰還して戦備を整えることが不可欠であった。
永正6年(1509)6月17日、澄元らは畿内を突破すべく3千の軍勢を率いて琵琶湖を渡り、尾関越えで山城国の如意ヶ嶽に迫った。如意ヶ嶽は洛東に位置する標高472メートルの山で、現在では「大文字送り火」が有名であるが、眼下に京都を窺える絶好の場所であった。これに対して高国は大内義興や畠山尚順らをも含めた2万とも3万ともいわれる大軍で如意ヶ嶽を包囲したのである。
兵力・地の利ともに劣る澄元らは如何ともし難く、夜半から激しくなった風雨に紛れて落ち延びて阿波国に帰還したのである。