細川澄元(ほそかわ・すみもと) 1489〜1520

阿波守護・細川義春の子。通称は六郎。
文亀3年(1503)に管領・細川政元の養子に迎えられ、11代将軍・足利義澄から一字を与えられて澄元と名乗った。
永正3年(1506)4月、摂津守護職を義父・政元より譲与される。
政元には澄元の他に澄之高国の2人の養子があり、この政元後継(細川京兆家の次期家督)の座をめぐる争いが10代将軍・足利義稙と足利義澄による将軍職争いとも絡みあって大乱に発展した。
永正4年(1507)6月に澄之派の香西元長薬師寺長忠らが政元を暗殺し、さらには澄元をも襲撃したため、澄元は近江国に逃れた。しかし8月1日の遊初軒の戦いで細川高国・細川政賢らが澄之・香西元長らを滅ぼすと、その翌日に上洛して義澄に拝謁し、細川京兆家(管領家)の家督を相続した。このとき摂津・丹波・讃岐・土佐守護にも併せて任じられている。
その後は管領として幕府政治の実権を握るが、永正5年(1508)になると高国との関係が悪化し、3月に高国が出奔。4月には有力被官も離反したことで勢力基盤が揺らぎ、さらには大内義興が前将軍・義稙を奉じて侵出してくると近江国に逃れ、ついで永正6年(1509)6月に如意ヶ嶽の合戦を経て阿波国へ帰還し、再挙を図った。
永正8年(1511)7月には細川政賢・細川尚春・赤松義村らと呼応して阿波国から攻め上り、一時は高国らを逐って京都を占拠したが、8月23日から翌日にかけての船岡山の合戦で大敗を喫して摂津国へと撤退した。
永正16年(1519)11月、重臣・三好之長に擁せられて上洛戦を展開し(越水城の戦い)、高国を京都から追い落としたことで将軍の義稙から家督を許された。しかし翌年5月、之長が高国の逆襲を受けて敗死(等持寺表の合戦)したため再び阿波国へ逃れ、6月10日に病死した。享年32。法名は真乗院宗泰安英。