永正4年(1507)より分裂闘争にまで発展した細川京兆家(管領家)の内訌は、それのみに止まらず、将軍家における政争とも絡み合って複雑な様相を呈していた。
強権を揮った細川政元亡き後の家督は細川澄之の手に渡ったが、これに反発した細川高国が細川澄元を支援して澄之を討ち(遊初軒の戦い)、澄元が8月2日に11代将軍・足利義澄より管領の地位を安堵されて畿内の情勢は安定したかに見えた。しかし澄元と高国の蜜月は長くは続かず、永正5年(1508)4月に至って高国が澄元を圧迫して近江国に逐い、さらには大内義興の後援を得て上洛の途に着いていた前将軍・足利義稙を再び将軍位に就け、自らが管領として幕政の実権を握ったのである。
復権を企図する澄元は、永正6年(1509)には高国勢力の充満する畿内を抜けて勢力基盤である阿波国へと帰還し(如意ヶ嶽の合戦)、永正8年(1511)になると播磨国の赤松義村と結んで細川尚春を添えて摂津国へと侵攻させ、和泉国方面からは同じく細川一族の細川政賢・細川元常の軍勢をもって衝かせたのである。
摂津国の戦線では細川尚春が高国方の鷹尾城主・瓦林政頼(河原林正頼)の迎撃を受けて大敗を喫したが(芦屋河原の合戦)、その直後には赤松義村が鷹尾城を攻略(鷹尾城の戦い)。和泉国戦線でも7月に堺の南方から上陸した澄元勢優位に推移し、8月15日に京都をも陥れたのである。
しかしこの前日の8月14日、澄元が奉じる足利義澄は、復位を目前にしながらも近江国岡山城で死没した。
澄元勢の勢いに押された細川高国・足利義稙・大内義興らは一旦、高国の守護領国である丹波国に逃れたが、2万とも2万5千ともいわれる軍勢を率いて京都に戻り、洛西の高尾に着陣した。
対する細川澄元・政賢らは高国勢の来攻に備えて船岡山に防塁を築いて対応した。
この船岡山は京都盆地の北西部に位置し、小山ではあるが盆地の地勢が北高南低なので、軍勢の動きを見るのに適していたが、8月23日の夜に大内義興の指揮による夜襲を受けると不意を衝かれた澄元勢は混乱に陥り、明け方頃にはすっかり打ち崩されて敗走を始めたのである。
澄元は東南1キロほどの小川第に5百騎余で布陣していたが、政賢が戻ってきて急を告げたので、建物に火をかけて摂津国へと落ちていった。澄元を逃がしたあと政賢はこの地に踏みとどまって戦い、討死を遂げた。
この一戦で高国勢が挙げた首級は3千8百余にも及んだといい、敗れた澄元は京都での足場を完全に失い、義稙を戴く高国・義興の連合政権がようやくの安定を見るのである。