船岡山の合戦での敗戦から8年を経た永正17年(1520)2月、4ヶ月に及ぶ攻城戦の末に摂津国西域の要衝・越水城を陥落させた細川澄元・三好之長主従はさらに東進し、政敵である細川高国を京都から近江国へと逐った(越水城の戦い)。
2月20日に山崎に到着した之長はここに1ヶ月ほど滞在し、3月27日に入京を果たした。このとき、主君である澄元を伴っていなかったが、澄元は体調を崩して摂津国伊丹城に留まっていたようである。しかし、逃れた高国も京都侵攻の準備を着々と進めていた。
澄元と高国の対立は永正4年(1507)以来の根深いものであり、京中の寺社や権門は近江国の高国の許に使いを出して再入京の際の兵士による乱暴を戒める禁制を求めているように、高国が反攻に出るのは自明なことだったのである。
果たして高国は近江守護の六角定頼や丹波守護代の内藤貞正らと呼応して、5月2日には京都の東に位置する如意ヶ嶽に布陣した。この如意ヶ嶽は、永正6年(1509)に高国に逐われて近江国に逃れた澄元・之長主従が勢力基盤である阿波国へと帰還するため、敗走に甘んじながらも突破を図った(如意ヶ嶽の合戦)という因縁の地であった。
5月5日に土御門内裏の南側に布陣した高国勢の兵力は4万とされ、対する之長は将軍御所の三条第近くに陣を構え、その兵数はわずかに2千とも4千ともいわれる。
両軍は姉小路東洞院の等持寺付近で遭遇し、合戦となった。之長勢は寡兵ながらもよく戦って日没まで持ちこたえたというが、高国勢の圧倒的な兵力差のまえに士気も衰え、多くの兵卒が摂津国方面へと逃走したために勝敗は決したという。
翌日、之長父子の数名が通玄寺曇華院に匿われていることが発覚した。高国は兵を配置して通玄寺を包囲すると共に之長らの引渡しを要求したが、これに対して院主はそれを頑なに拒んだという。しかし、その日のうちには之長の子である芥川長光と長則の兄弟が、そしてその翌日に之長が投降したのである。
高国が之長をどう処遇しようと考えていたかはわからないが、之長は天運に見放されていた。将軍・足利義稙の奉公衆として近侍していた細川彦四郎が、之長の死罪を懇願したのである。
永正14年(1517)9月、阿波国に在った之長は淡路水軍を支配下に置くために淡路守護・細川尚春を攻めて淡路国から逐い、永正16年(1519)5月11日に殺害していた。そのために淡路守護家は断絶となったが、この彦四郎こそは細川尚春の遺児だったのである。
之長は上京の百万遍に連行され、切腹を命じられて果てた。奇しくも細川尚春の命日と同じ5月11日のことであった。
また、之長の2人の子も翌日に自刃した。