内藤貞正(ないとう・さだまさ) ?〜1525

丹波守護代・内藤元貞の嫡男。通称は弥五郎。弾正忠・備前守。
文亀3年(1503)、丹波国の守護を兼ねる細川京兆家(管領家)・細川政元から丹波守護代に任じられた。
永正4年(1507)6月の政元横死後に起こった細川京兆家の内訌においては、摂津国の国人領主・伊丹元扶らと共に細川高国に与する旗幟を鮮明にし、高国と家督を争う細川澄元三好之長主従を圧迫して永正5年(1508)4月に近江国に奔らせた。このため高国政権下にも引き続いて丹波守護代の地位に在った。
永正16年(1519)になると澄元・之長らが畿内に侵攻して高国を近江国へと逐ったが、貞正は翌年5月に逆襲に転じた高国を支援して京都に出陣している(等持寺表の合戦)。
また、この頃に子・国貞に守護代職を譲って隠居した。
大永5年(1525)6月3日に死去した。