伊丹元扶(いたみ・もとすけ) ?〜1529

摂津国の国人領主。兵庫助・大和守。摂津国伊丹城主。
細川京兆家(管領家)に属し、はじめは細川澄元に従っていたが、澄元の下にあって専横を揮う三好之長への反発から澄元の政敵である細川高国に接近し、永正5年(1508)4月に丹波守護代の内藤貞正と共に澄元から離反して高国に与し、澄元・之長主従を畿内から逐った。
永正16年(1519)11月から澄元・之長主従が摂津国西部から畿内へ向けて侵攻を図った際に伊丹城も戦禍に晒され、翌年2月に落城して伊丹但馬守が自刃したというが、この伊丹但馬守と元扶の関係、このときの元扶の行動は不詳である。
大永7年(1527)2月の桂川の合戦で敗北を喫した高国が近江国に逃れたのちも伊丹城に勢力を維持しており、代わって入京を果たした波多野稙通・柳本賢治兄弟や、和泉国堺にて暫定政権(堺幕府)を樹立させた細川晴元三好元長主従の攻囲にも良く抗戦した(伊丹城の戦い)。
その後、時期は不詳であるが元長に帰属するところとなったが、享禄2年(1529)8月に細川晴元や柳本賢治と対立した元長が堺幕府を離脱して阿波へと帰国すると、その直後より柳本勢から伊丹城の包囲を受けて11月21日に落城、討死を遂げた(伊丹城の戦い:その2)。