伊丹(いたみ)城の戦い

大永6年(1526)10月下旬、かつて細川高国によって弟・香西元盛を自刃に追いやられた波多野稙通・柳本賢治の兄弟は、それぞれの居城である丹波国八上城・神尾寺城に拠って高国に叛旗を翻した。高国はこれを鎮定すべく細川尹賢を大将に任じて追討軍を派遣するが、丹波国人衆らの支援を得た波多野兄弟はこれを撃退する。
これに勢いを得た波多野兄弟は、高国の政敵であった細川澄元の遺児・晴元を擁す阿波国の三好氏と呼応して侵攻を開始、大永7年(1527)2月には桂川の合戦で高国勢を撃破して入京を果たし、京都を制圧したのである。
敗れた高国が将軍・足利義晴を奉じて近江国に逃れたことによって京都の政治権力は空白となり、波多野勢の京都制圧から1週間ほどのちには阿波国より細川晴元・三好元長主従が足利義維を奉じて和泉国堺に入部、ここに暫定政権(堺幕府)を樹立したのである。
畿内諸国の国人領主らの大半はこの新政権に従ったが、摂津国伊丹城主・伊丹元扶は依然として高国党としての立場を堅持していたため、堺幕府はこの伊丹城の攻略に乗り出したのである。

この伊丹城の戦いについては史料が少ないために具体的な経過は不詳であるが、桂川の合戦直後より柳本賢治の軍勢が攻囲していたようである。だが、城主の元扶が堅固に支え続けていたため、9月には三好元長も出馬するに至った。
しかし、この間にも義晴・高国陣営は京都奪回を策しており、六角定頼朝倉孝景ら近国の大名から支援を取り付けていた。そして畿内の軍勢が伊丹城攻めに動員されている虚を衝いて京都に侵攻したのである(東山の合戦)。
これを知った三好元長・柳本賢治らは京都防衛のために軍勢を返すこととし、10月頃には伊丹城の包囲が解かれたのである。

この後、京都の東山戦線で三好・柳本勢が義晴・高国勢を退けて畿内の覇権を維持したが、先の籠城戦を孤軍で耐え抜いた元扶は面目を施し、三好元長に属すこととなった。