第11代将軍・足利義澄の子。初名は義賢。後年は義冬と名乗る。従五位下・左馬頭。系譜では12代将軍・足利義晴の舎弟とされているが、実年齢は義晴より2歳年長とする説が有力である。
阿波国那賀郡平島荘を本拠としたため平島公方、または阿波公方と呼ばれた。
10代将軍の足利義稙や大内義興・細川高国らとの政争に敗れて近江国に逐われた父・義澄が永正8年(1511)に没すると、義晴と共に播磨守護・赤松義村の庇護を受けたが、のちに細川澄元と共に阿波国に下った。
大永元年(1521)頃、細川高国と不仲になって阿波国に下ってきた足利義稙の猶子となる。
この後、高国は義晴を擁して新将軍に据えるが、柳本賢治・三好勝長らが大永7年(1527)2月の桂川の合戦に勝利して高国・義晴を近江国に逐うと、澄元の子・細川晴元と共に三好元長に奉じられて和泉国堺に入り、7月13日には従五位下・左馬頭に叙位・任官するとともに名を義維と改め、崩壊同然となった室町幕府に代わる新政権(いわゆる堺幕府)を発足させた。
大永8年(1528)8月に大永から享禄の年号に改元されたが、朝廷はこの改元を義維ではなく、依然として将軍位に在った義晴に諮ったことを不満として新年号を認めず、同年11月までは大永の年号を使用し続けている。
享禄5年(=天文元年:1532)6月に元長が細川晴元・(本願寺)証如らに滅ぼされると後ろ楯を失い、阿波国平島に帰った。その後もしばしば晴元や義晴と対立し、天文16年(1547)と天文20年(1551)に上洛を図ったが実現せず、将軍就任の企ては成らなかった。
一時は周防国に在国したこともあるが、永禄6年(1563)に三好長逸の斡旋で阿波国に帰り、13代将軍・足利義輝が暗殺されたのちの永禄9年(1566)、子の義栄と共に念願の入京を果たすため、摂津国富田に移って機会を待った。
義栄は同地で永禄11年(1568)2月8日に第14代の征夷大将軍に就任したが、同年9月に義栄が病没したため平島に戻り、天正元年(1573)10月8日、同地で没した。65歳。法号は慶林院実山道詮。