三好長逸(みよし・ながゆき) ?〜?

三好氏一族。三好長則の子。三好三人衆の筆頭。通称は孫四郎。名を長縁とも。日向守・従四位下。号を北斎。山城国飯岡城主。
三好元長の従兄弟にあたり、早くから元長の後継・三好長慶に従い、主に摂津・丹波国方面の軍事行動に従事した。
天文18年(1549)に長慶が三好政長・政勝父子を攻めた際(江口の合戦)には摂津国芥川城の後詰を果たした。
天文23年(1554)には播磨国に出陣して美嚢郡を攻略する活躍を見せるが、天文24年(=弘治元年:1555)9月には摂津国から軍勢を率いて丹波国多紀郡八上城の波多野晴通を攻めて敗北を喫し、和議を結んでいる。
永禄元年(1558)に長慶が将軍・足利義輝と和して幕府機構を復活させたのちは、山城国飯岡城主となって山城の南半国を統治した。
永禄7年(1564)7月に長慶が病没すると後継・三好義継の後見人となり、三好一族の最長老として家政の主導権を掌握する。この後は将軍を平島(阿波)公方・足利義栄に挿げ替えて幕政を牛耳ることを目論み、永禄8年(1565)5月、松永久秀と謀議して足利義輝を暗殺した(室町御所の戦い)。しかし同年11月には久秀と対立するようになり、長逸ら三人衆が大和国の筒井順慶と結んで久秀の所領である大和国に圧迫を加えると、久秀は畠山高政ら河内国の旧勢力や紀伊国根来寺宗徒らに檄を飛ばして河内国を撹乱したため、畿内は再び争乱状態に陥った。
その後の闘争で畿内の要所を制圧して戦況を優位に進めるが、永禄10年(1567)2月に義継が離反して久秀と結んだため、情勢は均衡する。
同年4月より久秀を攻めるために奈良に出陣。この年の10月10日に奈良東大寺の大仏殿が焼失しているが、これは東大寺に陣を布いていた三好方の失火によるものである(東大寺の戦い)。
この間の永禄9年(1566)に足利義栄が上洛の機会を窺うために淡路国を経て摂津国に滞在していたが、永禄11年(1568)2月に至って将軍位に就任。しかし同年9月に義栄は病没し、さらには織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛するとの報を得ると六角義賢と結ぶが、信長の勢いの前に戦わずして芥川城を捨てて阿波国へと逃れた。
信長が帰国したのちの永禄12年(1569)1月、再び入京して本圀寺に足利義昭を襲撃するが失敗し、阿波国に撤退した。
その後の元亀元年(1570)7月に挙兵して摂津国中島に侵出すると本願寺法主・顕如と結んで信長に対抗し(野田・福島の合戦)、この三好勢の畿内侵攻を発端として石山合戦が勃発することになった。さらには信長に敵対していた朝倉・浅井氏の連合軍が侵攻を企てたため信長は撤退し、この年の暮れには和議を結んだ。
しかし翌元亀2年(1571)5月に信長との和が破れると、摂津・河内国に進出して信長と交戦して戦況を優位に展開したが、天正元年(1573)に信長の攻撃を受けて敗走、その後の消息は不明である。