阿波細川氏の重臣・三好元長の嫡男。幼名は千熊丸。通称は孫次郎。名を利長・範長(のりなが)ともいう。従四位・修理大夫・筑前守。本国は阿波。
享禄5年(=天文元年:1532)6月に父・元長が和泉国顕本寺にて敗死(顕本寺の戦い)するに先立ち、阿波国に落ち延びた。
天文2年(1533)、本願寺と管領・細川晴元との講和を仲介する。その功で天文3年(1534)、木沢長政の斡旋により晴元の被官となり、幕府に出仕した。
天文8年(1539)、幕府御料所の河内国十七箇所の代官職を要求したが、これを許されなかったことから晴元に叛いて挙兵し、摂津国島上まで侵出。六角定頼らの斡旋によって和睦に至り、摂津半国の守護代職を得て摂津国越水城主となった。
天文9年(1540)11月、丹波国八上城主・波多野秀忠の娘を妻とする。
天文11年(1542)3月の河内国太平寺の合戦においては幕府軍として参陣して木沢長政を破り、天文12年(1543)には和泉国で挙兵した細川氏綱と戦い、天文16年(1547)7月の河内国舎利寺の合戦では弟・三好義賢を派遣して、氏綱と結んだ河内守護代・遊佐長教に大勝して、幕府内における軍事的地位を高めた。
天文17年(1548)4月には六角定頼の斡旋もあって細川氏綱・遊佐長教と和睦し、翌月には長教の娘と再婚。8月には三好一族で晴元の参謀的地位にあった三好政長を除こうとしたが、これを容れられなかったことを理由として同年10月、畠山高政・遊佐長教とともに氏綱を奉じて晴元に叛いた。
その翌年の天文18年(1549)6月、摂津国江口の合戦において政長を敗死させて勝利した。この合戦の勝利によって晴元政権を瓦解させ、晴元や将軍の足利義晴・義輝父子らを京都から逐うと長慶は氏綱を奉じて7月に入京し、畿内における実権を掌握した。
しかし三好政長の子・政勝や香西元成らなどが抵抗を続けていたため、畿内の政情は安定しなかった。そこで天文21年(1552)1月に六角義賢の調停を受けて、晴元を隠居させること、晴元の嫡子・聡明丸(のちの細川昭元)が成人した際には細川氏の家督とすること、それまでは氏綱を細川氏家督とすることなどを条件として足利義輝と和睦することで政情の安定を図り、義輝を京都に迎えることで落着させると同時に、自らは将軍の御供衆として幕政の中枢に君臨した。
しかしこの和は同年の秋頃に破れて義輝と再び不和となり、義輝は摂津国霊山城に籠城。翌天文22年(1553)8月にこの霊山城を攻略して義輝を近江国に逐い(霊山城の戦い)、さらには同族でありながら長慶に叛いた芥川孫十郎の拠る摂津国芥川城を陥落させてこれを本拠とし、幕府に替わる三好政権を築いた。
この三好政権は幕府のように全国規模で展開するものではなく、あくまでも畿内限定であったが、当時の日本の中心であった京都を含む支配領域には自らの名前で裁許状を出し、人夫役の徴収や段米・棟別銭の賦課を行うなど、山城国に限っては幕府の持っていた権益の全てを継承したといえる。
天文24年(=弘治元年:1555)には播磨国東部の2郡、弘治3年(1557)には丹波国の氷上郡を除くほぼ全域を制圧。
永禄元年(1558)の5月から6月にかけて、京都復帰を目指す義輝と交戦。義輝勢を上回る兵力で迎撃したが戦況は膠着し、11月には講和して義輝を京都に迎えた(白川口の合戦)。義輝の京都復帰によって幕府機構は復活し、中央政界における三好政権は終息した。
永禄3年(1560)には河内国高屋城・飯盛城を陥落させて畠山高政を追放して河内国を所領に加え、さらには重臣の松永久秀が大和国を制圧したことによって長慶の版図は更に広がり、山城・摂津・和泉・河内・大和・淡路・阿波・讃岐および播磨の一部にまで及ぶところとなった。
永禄4年(1561)5月には晴元を摂津国富田の普門寺に幽閉したことで政敵を封じたかに見えたが、7月に至って六角義賢・畠山高政が晴元の子・晴之を擁して挙兵。京都や和泉国で戦闘が展開されたが戦線は膠着し、翌年3月に和泉国久米田の合戦で三好義賢が敗死すると和泉国の三好勢は総崩れとなり、京都も六角義賢によって占拠されるところなり、長慶も京都から撤退した。しかし同年5月に河内国教興寺・葉引野の合戦で勝利して畠山高政を逐うと、六角勢も京都から撤退したため入京を果たし、再び畿内を治めることとなった。
永禄6年(1563)8月、嫡子・義興が病死(毒殺とも)すると実弟である十河一存の子・熊王丸(のちの三好義継)を猶子としたが、立て続けに肉親を失った失意のあまりに心身に異常をきたし、政務をとらなくなった。
永禄7年(1564)5月、人望の厚かった実弟・安宅冬康を誅殺した。松永久秀の讒言を信じての挙とされる。
同年7月4日に河内国飯盛城下の屋敷で病没した。享年43。法名は聚光院宗進。当時、長慶の喪は固く秘されており、その死が明らかにされたのは永禄9年(1566)6月に至ってであった。
長慶は当時の武将の中では屈指の教養人であった。とくに連歌の才に長じ、こよなく愛したという。