三好長慶の嫡男。幼名は千熊丸。通称は孫次郎。別名を義長。筑前守・従四位下。
天文21年(1552)、父・長慶が足利義輝・細川晴元と和議を結ぶに際してそれぞれの嫡子を人質として交換することとなり、義輝・晴元の居していた近江国朽木に赴いた。三好家中に戻った時期は不詳であるが、永禄元年(1558)以前と目される。
永禄3年(1560)、将軍・足利義輝から諱を与えられて義長と名乗り、筑前守に任じられて御供衆となる。同年に長慶は飯盛城に移っているが、それまで長慶が居していた摂津国芥川城を与えられ、摂津国の統治を任せられる。
永禄4年(1561)に相伴衆となり、従四位下に叙せられ、名を義興と改めた。
長慶の後継として将来を嘱望されていたが、永禄6年(1563)8月に芥川城で病死した。22歳。黄疸によるものと伝わるが、側近あるいは三好氏の重臣・松永久秀に毒殺されたとする説もある。