太平寺(たいへいじ)の合戦

河内国北半国の守護代で飯盛城主の木沢長政細川晴元麾下の武将として戦功を重ねて重用されたが、天文10年(1541)7月には山城国南域の笠置城を本拠とし、その翌月には河内国南半国守護代・遊佐長教と結んで前河内守護の畠山長経を殺し、畠山家中における影響力を強めるなど、自立を目論んだ振る舞いが多くなったことから晴元に疎まれるようになっていた。
また時を同じくして摂津国一庫城主・塩川政年が、幕府の要職にあった三好長慶に敵対する姿勢を明らかにしたとき、長政もこれに与したのである。それは即ち幕府に敵対することであり、晴元は長慶・三好政長波多野秀忠らに命じて一庫城を攻めさせたが城兵はよく守り、一庫城の後巻きに出陣した長政の働きで幕府軍は10月までには撤退を余儀なくされた(一庫城の戦い)。
これら長政の動向は幕府の不快を招くところとなり、晴元の要請を受けた将軍・足利義晴は木沢討伐を命じる御内書を発給し、12月には晴元も笠置城を攻めるために摂津国東域の芥川城まで出陣したのである。
これに対して木沢勢は山城国の井手に軍勢を進め、遠く淀川・木津川に挟まれた河内国北域を隔てて相対したが、その後は大きな軍事衝突もないままに戦線は膠着した。

戦況が動いたのは翌天文11年(1542)3月になってからであった。それまで長政に与同していた遊佐長教が背反して幕府と通じ、紀伊国に亡命していた前河内南半国守護・畠山稙長を擁立する挙に出たのである。
この事態に現守護の畠山政国は3月10日に河内国高屋城を逐電、長政を頼ってその属城である大和国信貴山城に向けて逃亡すると、幕府はこの畠山氏の分裂抗争に稙長の支援、政国の追討を決めた。これは政国の追討に加え、その背後にある長政を見据えたものと推察される。そして13日には稙長に率いられた紀伊国の土豪のほか、高野山・粉河寺・根来寺の僧兵らの軍勢が高屋城に入城し、河内国に反長政の一大勢力が現出したのである。
長政はこの情勢を打破すべく、塩川氏や伊丹氏ら与同勢力に決起を促すとともに、自らは軍勢を率いて高屋城を見下ろすことのできる尼上山に布陣し、攻城の構えを取った。その勢は5千、一説には7千と伝わる。一方、高屋城には三好長慶・三好政長らの援軍が駆けつけ、木沢方を上回る8千ほどの兵力となった。

そして3月17日、尼上山から北上しようとする木沢勢に、高屋城から出撃した幕府軍が襲いかかった。戦闘は午後3時頃から始められたといい、両軍は落合川付近で激戦に及んだが、戦況は幕府軍優勢に展開し、長政が遊佐長教の被官・小島某に討たれたことによって決し、木沢方の軍勢では3百余が討死、残りが負傷あるいは敗走した。
この合戦は落合川で行われているが、戦場近くの名刹『太平寺』に因んで、太平寺の合戦と称されている。