一庫(ひとくら)城の戦い

幕府管領・細川晴元の重臣である三好長慶は天文3年(1534)に出仕して以来、摂津国に威勢を伸長させて天文8年(1539)には摂津半国の守護代にまで累進していたが、摂津国一庫(一蔵)城主の塩川政年(国満とも)は、妻がかつて晴元と細川京兆家(管領家)の地位を争った細川高国の妹であったこともあってその動向を警戒し、伊丹親興や三宅国村など、同じく晴元や長慶に脅威や反感を感じていた摂津国の国人領主と結んで天文10年(1541)8月に挙兵したのである。
晴元はこの報を得ると、直ちに長慶やその岳父の波多野秀忠三好政長やその娘婿の池田信正らに鎮圧を命じ、この軍勢は一庫城を包囲して圧迫した。
しかし塩川氏は伊丹・三宅氏らのみならず、伊丹氏の所縁から河内・南山城・大和国に亘って勢力を張る木沢長政の支援をも取り付けた。長政は晴元麾下の武将であったが、この頃には自立を企てていたようであり、自身の影響力を強めようとしたのだろう、弟を将とする軍勢を派遣してこれに応えた。
この木沢・伊丹・三宅の連合軍が一庫城の後巻のために伊丹城に結集したことを知ると、三好ら攻囲軍は戦況の不利を悟り、9月末頃に囲みを解いて撤退した。