池田信正(いけだ・のぶまさ) ?〜1548

摂津国の国人領主・池田貞正の子。通称は三郎五郎。筑後守。名を久宗とも。摂津国池田城主。
管領・細川政元の跡目をめぐる細川氏の分裂内訌において細川澄元に与した父・貞正が永正5年(1508)に細川高国勢に攻められて摂津国池田城で自害したときに有馬郡に逃れたが、永正16年(1519)10月に澄元に呼応して挙兵、田中城を取り立てて拠り、高国より差し向けられた軍勢を撃退した。
これらの戦功の恩賞として旧領を回復し、細川澄元の嫡子・細川晴元が幕政の実権を握ると重用されて有力な国人領主に成長し、天文元年(1532)に起こった一向一揆との抗争(天文法華一揆)では晴元を援け、伊丹氏と共に一揆の鎮定に活躍している。
細川晴元と細川氏綱の抗争においては、天文14年(1545)5月には晴元方の武将として従軍していることが史料に見えるが、天文15年(1546)には氏綱に与した遊佐長教と通じて晴元勢と戦っている。
しかし天文16年(1547)になって晴元方が優勢となると同年6月下旬頃には晴元に開城降伏しており、この反覆的な所業を警戒されて天文17年(1548)5月に自害を命じられた。