波多野秀忠(はたの・ひでただ) ?〜?

丹波国の国人領主。波多野稙通(元清)の嫡男。波多野晴通の兄。通称は与兵衛。備前守。丹波国多紀郡八上城主。
大永年間(1521〜1528)後期に始まる細川高国足利義晴陣営と細川晴元足利義維陣営の抗争には晴元・義維方(堺幕府方)に与し、高国滅亡後の享禄4年(1531)頃より堺幕府の内部で細川晴元・木沢長政三好政長らと三好元長の対立が生じた際には元長と結んでいる。
天文元年(1532)、晴元への抵抗を続ける細川高国残党によって高国の弟・細川晴国(晴総)が擁立されると、これに味方して重用され、翌天文2年(1533)には6月と12月の2度に亘って晴国を擁して京都への侵攻を図ったが、晴元を追い落すには至らなかった。
天文5年(1536)8月に晴国が三宅国村の裏切りに遭って滅亡したのちは晴元に帰参して幕府に出仕し、天文7年(1538)10月には高国残党に応じて決起した丹波守護代・内藤国貞の拠る丹波国八木城を、三好政長とともに攻めて鎮圧している。
天文9年(1540)の冬には娘を三好長慶に嫁がせて連携を強化した。
天文10年(1541)8月、長慶らとともに摂津国一庫城の戦いに従軍したが、攻略はならなかった。
この後、波多野秀忠の名は見えなくなり、代わって波多野氏の中心的な人物として波多野元秀の名が見えるようになる。この元秀は秀忠の子とも、あるいは秀忠と同一人物ともされており、代替わりもしくは改名したものと思われる。
天文14年(1545)5月、細川氏綱に応じて内藤国貞が再び挙兵すると、波多野氏は長慶とともにこれを鎮圧している。
三好長慶は天文17年(1548)5月に晴元と決裂して細川氏綱と結ぶが、長慶に嫁した秀忠の娘は、長慶が氏綱陣営の遊佐長教の娘を娶るために離別させられた。
晴元が天文21年(1552)に氏綱・長慶と和睦して逼塞したのちも元秀は晴元陣営に残り、同年4月には長慶に八上城を攻められたが、長慶の配下武将を内応させて撃退している。