内藤国貞(ないとう・くにさだ) ?〜1553

丹波守護代・内藤貞正の子。弾正忠・備前守。丹波国船井郡八木城主。
永正17年(1520)頃に父・貞正より丹波守護代職を譲られ、父と同様に細川高国に属した。
大永6年(1526)10月に丹波国の波多野稙通・柳本賢治兄弟がそれぞれの居城である八上城・神尾寺城に拠って高国に叛いた際、これを鎮圧するため細川尹賢に従って神尾寺城攻めに従軍したが、11月初旬には形勢を見て追討軍から離脱し、居城に引き返した。
高国の死後にはその弟・晴国に属したようだが、晴国が重用した多紀郡の国人領主・波多野秀忠との競合からかしだいに晴国との距離は開いていき、天文2年(1533)に至って12代将軍・足利義晴の赦免を受けて細川晴元に属し、丹波守護代に復帰したようである。しかし晴元との関係は良好とは言えず、天文7年(1538)10月に高国残党が蜂起した際にはこれに呼応する動きを見せ、天文14年(1545)には「高国の跡目」と称する細川氏綱に通じて晴元に叛いているが、氏綱の有力な支援者である畠山稙長が同年5月に没したことを契機に反晴元勢力が退勢となると、三好長慶・波多野氏らに鎮圧されている。
天文17年(1548)10月、細川晴元と決裂した三好長慶が氏綱陣営に参じると長慶に属し、天文22年(1553)9月、長慶の配下武将の松永久秀長頼兄弟らとともに晴元方の波多野氏を攻めたが、逆に同月18日、波多野氏を支援する香西元成・三好政勝らに攻められて八木城が陥落、国貞も戦死した。