細川晴国(ほそかわ・はるくに) ?〜1536

細川政春の子。管領として権勢を揮った細川高国の弟。通称は八郎。別称を晴総。
兄・高国が享禄4年(1531)6月に細川晴元勢と戦って敗死(天王寺の合戦)したのち、高国残党によって擁立された。
天文元年(1532)9月頃には丹波国に在って波多野秀忠ら反細川晴元派の国人領主の支持を取り付けており、また、同年の天文法華一揆(山科本願寺合戦)勃発によって晴元と決裂した一向一揆とも連携した。
天文2年(1533)5月、晴元らが一向一揆の拠点である摂津国大坂の石山道場(のちの石山本願寺)攻めに向かったことで手薄になった京都を狙って山城国の高雄に挙兵し、6月には迎撃に出た晴元方の武将・薬師寺国長を敗死させているが、京都を制圧するまでには至らなかった。
6月20日に晴元と本願寺が和議を結び、これに伴って細川京兆家(管領家)家督は晴元、晴国は安房守任官と決定されたようだが、晴国はこれに服さずに晴元との抗争を続け、同年10月頃には丹波国の晴元派勢力である内藤氏や赤沢氏らを破って丹波国を制圧。12月には波多野氏の支援を受けて再び京都に向けて出陣したが、晴元方の法華一揆に敗れて入洛は成らなかった。
こののちに求心力を失っていったようで波多野氏との関係も希薄になっていき、天文5年(1536)8月26日、晴元に内通した家臣・三宅国村の裏切りに遭って摂津国天王寺で自刃した。