細川京兆家(管領家)の被官。幼名は万徳丸。通称は与次。備後守。
薬師寺長忠の子ともされるが、永正4年(1507)7月28日に薬師寺元一遺児の万徳丸が摂津守護所の茨木城に薬師寺長忠を攻めていることから、万徳丸すなわち国長の父は元一であろう。元一は永正元年(1504)9月に細川京兆家の当主・細川政元に叛いたため長忠らによって鎮圧され、自害させられている(淀藤岡城の戦い)。
この永正4年という年は6月に政元が殺害され、その跡目をめぐって養子であった細川澄之・細川澄元・細川高国の3人が抗争するに至った年であった。国長は細川高国に属し、永正5年(1508)より摂津守護代に任じられた。
大永7年(1527)1月下旬、高国に反旗を翻した丹波国の柳本賢治が畿内に向けて進撃を開始すると、これに備えて山城国山崎城を守ったが、陥落させられて摂津国高槻城に逃れた。
その後、時期は不詳であるが細川澄元のあとを継いだ細川晴元に降る。
晴元は勢力を伸長させるにあたって一向一揆(浄土真宗門徒の集団)の合力を得ていたが、天文元年(1532)8月頃よりこれと対立するようになると、すぐさま法華一揆(日蓮宗徒の集団)と結んで対抗するに至る。この情勢を受けて国長は同年9月に山城国山崎で法華一揆とともに摂津国の一向一揆と戦ったが、大敗を喫した。
天文2年(1533)1月にも法華一揆を率いて摂津国で一向一揆と戦うが、このときも敗れている。
同年5月、晴元らが摂津国で一向一揆と戦っている虚を衝いて細川晴国勢が山城国に侵入して高雄・栂尾に布陣すると、国長は京都に残っていた法華一揆とともに迎撃にあたったが、6月18日に戦死した。