柳本賢治(やなぎもと・かたはる) ?〜1530

波多野稙通・香西元盛の弟。弾正忠。丹波国桑田郡神尾寺城主。
はじめ細川高国に属し、大永4年(1524)10月、和泉国で細川澄元の残党と戦う。
大永6年(1526)7月に高国が細川尹賢の讒言を信じて香西元盛を謀殺すると、10月に賢治は兄で丹波国八上城の波多野稙通と共に謀叛を起こし、丹波国神尾寺城で挙兵した。
この後、高国らの征伐を受けたがこれを駆逐し、大永7年(1527)1月下旬より京都へ向けて侵攻を開始。野田城・山崎城をはじめとして摂津国北部の諸城を制圧し、2月には賢治らに呼応して阿波国から侵攻した三好勝長らと共闘。細川高国・尹賢を駆逐して入京を果たし(桂川の合戦)、敗れた高国・尹賢は将軍の足利義晴を奉じて近江国に奔った。
この賢治の軍事功績は大きく、高国と義晴が京都を出奔したのち、足利義維細川晴元三好元長に奉じられて阿波国より堺に至り、堺にて暫定政権(いわゆる堺幕府)を樹立した。
しかし、のちに元長と不仲になったため賢治は稙通と共に元長の排斥を謀り、堺に下って晴元に元長を讒言した。元長が大永8年(=享禄元年:1528)8月に阿波国に帰国すると、畿内各地で元長に与した国人領主らと抗争を展開。享禄2年(1529)11月には摂津国衆・伊丹元扶を伊丹城に攻め滅ぼすなどの戦果を挙げている(伊丹城の戦い:その2)。
享禄3年(1530)5月、幕府政所執事の伊勢貞忠らと謀って将軍・義晴の帰京を策したが失敗。のち播磨国に侵攻したが、6月29日、細川高国に与する浦上村宗に内通した近侍の者に暗殺された。