桂川(かつらがわ)の合戦

永正17年(1520)5月の等持寺表の合戦において政敵・細川澄元の腹心である三好之長を討って京都を掌握し、大永元年(1521)には自らの擁立する足利義晴を将軍として据え、その下に在って権勢を揮っていた細川高国であったが、弟・細川尹賢の讒言を容れて被官・香西元盛を大永6年(1526)7月に謀殺したため、元盛の兄弟である波多野稙通・柳本賢治らの反発を招くこととなった。
当時在京していた波多野・柳本の兄弟は密かに所領の丹波国に帰国し、同年10月には波多野稙通が八上城、柳本賢治が神尾寺城と、それぞれの居城に拠って叛旗を翻したのである。
この事態を受けた高国は間もなく細川尹賢を大将に任じて鎮定に向かわせたが、この尹賢の軍勢が敗退して帰京すると波多野・柳本の軍勢がこれを追って畿内に進撃する。さらには12月、この波多野・柳本兄弟に呼応して澄元残党の三好勝長・政長兄弟が阿波国より和泉国の堺に上陸して侵攻を企てたのである。
窮地に陥った高国は、近国の諸大名に宛てて将軍の名で御内書を発して支援を要請したが、これに応じたのは若狭国の武田元光のみであった。
丹波国から攻め上った柳本軍は翌大永7年(1527)2月に山崎城・芥川城・茨木城などを攻略し、阿波国の軍勢と合流を果たして京都に迫るべく、2月12日に桂川畔に布陣した。
これを迎え撃つ高国勢も桂川を防衛線として鳥羽付近に軍勢を展開させ、高国は妙本寺を本陣に据え、武田元光は西七条の泉乗寺に陣を取り、将軍の義晴も六条に出陣している。
両軍は桂川を挟んで対峙し、翌2月13日に桂川畔で会戦となった。
大勢は士気旺盛な三好兄弟が渡河して武田元光の軍勢を打ち破ると決定的なものとなり、反高国陣営の大勝となった。武田勢に80人ほど、高国勢に2百から3百ほどの討死があり、反高国陣営でも80人ほどの戦死者があったといわれる。
敗れた高国らは足利義晴を擁して近江国坂本に逃れた。

高国らが敗退したことを受けて幕府吏僚も逃亡したため、幕府の統治機関としての機能は完全な停止状態となった。
空白となった京都には2月16日に波多野・柳本勢が入り、三好元長に擁立された足利義維細川晴元らは22日に和泉国堺に到着。堺に在るまま暫定政権(いわゆる堺幕府)を樹立し、ここに京都における室町幕府は崩壊同然となったのである。