武田元光(たけだ・もとみつ) 1494〜1551

若狭守護・武田元信の二男。通称は彦二郎。伊豆守・大膳大夫。若狭国後瀬山城主。
文亀3年(1503)11月15日、10歳で元服。
兄は僧侶になったといい、永正16年(1519)11月の父・元信の出家にともなって家督と若狭守護職を継承した。
大永2年(1522)に若狭国小浜の後瀬山に城を築き、居城とした。
大永6年(1526)7月、管領・細川高国が被官の香西元盛を粛清したため、これに反発した元盛の兄弟である波多野稙通・柳本賢治が、同年10月下旬に至って、かつての高国の政敵であった細川澄元を擁立していた阿波国の三好氏と結んで丹波国で挙兵した。幕府はこれを鎮圧するために諸大名に派兵を要請したが、これに応じたのは元光だけだったという。
12月には軍勢を率いて上洛し、翌大永7年(1527)2月には幕府軍として桂川の合戦で三好・柳本の連合軍と戦うが敗れ、高国とともに将軍・足利義晴を奉じて近江国に逃れた。
天文3年(1534)、将軍の義晴からの御内書で、元光か子の信豊が上洛するように要請されている。これに応じたかは不詳だが、同年頃に出家入道して宗勝と号した。
天文7年(1538)2月、家老の粟屋氏が叛いて兵を挙げるという内紛が起こったが、幕府を通じて越前守護の朝倉孝景から援軍を得ることができ、鎮圧できたという。
同年7月10日に家督を信豊に譲り、天文20年(1551)に死去した。
文芸にも力を入れ、とくに歌道においては三条西実隆に師事し、熱心に詠草に合点を求めていたという。