浦上村宗(うらがみ・むらむね) ?〜1531

赤松家臣。掃部助。備前守護代。備前国三石城主。
浦上氏の系図には諸種あって異同も多いために出自を特定できないが、浦上則宗の子とされる(実子か養子か不詳)浦上宗助の子、または弟ともされる。いずれにしても元亀2年(1502)の則宗の死後、その後継として赤松義村に仕えて備前守護代の地位に在り、主家を凌ぐほどの権勢を揮った。
このため義村と不和になって永正15年(1518)9月より数度に亘って居城・三石城を攻められたが、家臣・宇喜多能家の活躍などもあって優勢を保ち、永正17年(1520)11月には義村に隠居を強要して義村の子・才松丸(のちの赤松晴政)を傀儡の当主に据えて実権を掌握した。
翌大永元年(1521)、当時義村のもとに保護されていた足利亀王丸(のちの足利義晴)の引渡しを条件に義村と和睦したが、刺客を送って9月17日に殺害している。
享禄3年(1530)、大永7年(1527)2月の桂川の合戦に敗れて逃れてきていた前管領・細川高国を擁して摂津国に出征し、高国の政敵であった細川晴元の率いる軍勢と戦ったが、赤松晴政の離反に遭って享禄4年(1531)6月4日の天王寺の合戦で討死した。