赤松晴政(あかまつ・はるまさ) 1513〜?

赤松義村の嫡男。幼名を才松丸。初名は政村。左京大夫。
永正17年(1520)11月、重臣の浦上村宗から圧迫を受けた父・義村より家督を譲られて赤松氏惣領となり、播磨・備前・美作の守護となる。
その翌年に義村は浦上村宗に殺され、晴政は村宗に軟禁された。その後、村宗の傀儡にさせられ、名目上の守護として播磨国置塩城にあったが、享禄4年(1531)に村宗が前管領・細川高国を擁して畿内に侵攻した際に細川晴元三好元長らに内応し、同年6月の天王寺の合戦(大物崩れ)で村宗を討ち、父の仇討ちを遂げた。
村宗の討死後、その遺児である浦上政宗を浦上氏残党が擁立して反抗したが、のちには従え、天文7年(1538)には出雲国の尼子晴久に播磨国を侵されて淡路国に逃れ、翌天文8年(1539)には阿波国の細川持隆の支援のもとに反撃を企図して播磨国に侵入したが、再び撃退されて和泉国に逃れた。
天文10年(1541)に尼子晴久が郡山城の戦いに敗れて勢力が衰退すると帰国が叶い、永禄7年(1564)には刺客を放って浦上政宗を殺害しているが、勢力の回復は果たせなかった。