尼子晴久(あまご・はるひさ) 1514〜1560

出雲国月山富田城を本拠とした戦国大名。尼子政久の子。母は山名兵庫頭の女。尼子経久の孫。通称は三郎四郎。初名は詮久。従五位下・民部少輔・修理大夫。出雲国月山富田城主。
父・政久は永正15年(1518)9月、出雲国阿用城の桜井氏を攻撃中に戦死していたため、経久の嫡孫にあたる晴久が天文6年(1537)、経久の隠退を受けて家督を相続した。
晴久が相続した頃の尼子氏は出雲・隠岐・伯耆・備中・備後国の大半を勢力範囲とし、その周辺諸国にも勢力を浸透させていたが、天文7年(1538)には美作・備前・播磨国をもほぼ制圧して播磨守護・赤松晴政を国外に逐うなど、経久から継承した領土を急進的に拡大した。
この威勢を背景として畿内への進出も目前であったが、中国地方の覇権をめぐって周防国の大名・大内義隆や、大内氏に属す安芸国の毛利元就らとたびたび抗争した。天文9年(1540)9月より毛利元就の拠る安芸国郡山城を攻めたが、翌天文10年(1541)1月、毛利氏の支援に到来した大内氏重臣・陶晴賢の軍勢に敗退している(郡山城の戦い)。
同年10月、将軍・足利義晴の偏諱を受けて名を詮久から晴久と改めた。
郡山城の戦いでの敗戦後に声望が衰え、傘下に従えていた国人領主らに離反されるも、天文12年(1543)には領国に侵攻してきた大内勢を撃破(月山富田城の戦い)、再び名声を回復する。
その後は退勢を挽回すべく安芸・備後・石見国で大内氏や毛利氏と抗争し、天文21年(1552)4月には幕府より出雲・隠岐・因幡・伯耆・備前・備中・備後・美作8ヶ国の守護職に補任されているが、毛利氏に靡く国人領主らの動きを留めることができず、天文22年(1553)末頃までには安芸・備後・石見国の与党勢力の多くを失っている。しかも天文23年(1554)11月、毛利元就に謀られて家中随一の精鋭集団・新宮党を自ら滅ぼしたことにより、勢力が大きく減衰。これより尼子氏は斜陽の時代を迎え、毛利元就の台頭を許すこととなった。
永禄3年(1560)12月24日、居城の月山富田城にて脳溢血で没した。47歳。法号は天威心勢大居士。