尼子経久(あまご・つねひさ) 1458〜1541

出雲守護代・尼子清定の嫡男。母は馬木(真木)上野介の女。妻は吉川経基の娘。長禄2年(1458)11月20日に生れる。通称を又四郎。民部少輔・伊予守。月叟省心と号した。出雲国月山富田城主。
文明6年(1474)、父・清定に遣わされて上洛、在京していた出雲守護・京極政経(別称を政高)と所領の美保関公用銭(通行税)について協議しているが、これが経久の初見である。文明10年(1478)頃より経久と名乗るようになった。
文書において清定の存在が確認できるのは文明8年(1476)9月、経久の初見が文明11年(1479)3月であることから、この間に尼子氏家督と出雲守護代の名跡を継承したとみられる。しかし寺社本所領の横領・段銭徴収を怠ったことによる公役怠慢や、尼子勢力の増大を警戒されたことなどから文明16年(1484)3月に守護代職を罷免されたうえに追討令が発せられ、11月には国人領主らによって居城の月山富田城を奪われて諸所を流浪するに至る。
しかし2年後の文明18年(1486)の元旦、密かに抱きこんだ芸人らと共に、城で催される宴のときに一斉に襲撃するという奇策をもって富田城を落とし、城主となっていた塩冶一族を滅ぼした。このときの戦闘では、わずか百数十人の手勢で城兵四百五十余人(数に異説あり)を討ち取ったという。
その後はしだいに勢力を伸ばし、三沢・三刀屋・赤穴氏ら出雲国内の国人領主を被官化し、出雲国における事実上の支配者となった。
永正4年(1507)末より前将軍・足利義稙を奉じて畿内に進撃した大内義興に従軍し、永正8年(1511)の船岡山の合戦にも義興方として参陣していたともいわれるが、永正5年(1508)9月、永正6年(1509)9月にも出雲に在国していたという記録もあることから、長期に亘っての在京、あるいは大内義興への従軍そのものを疑問視する説もある。
永正13年(1516)に帰国、その後は近隣諸国に侵攻を続けて伯耆・備中・備後・美作・安芸・石見国などに勢力を浸透させ、大永元年(1521)には大内義興と衝突した。このときは将軍・足利義晴の斡旋によって8月に和睦したが、翌月には石見国において大内氏との抗争が再燃する。
大内氏との抗争は主に石見・安芸国を舞台として展開されており、当初は毛利・吉川氏ら有力国人領主を味方につけて優勢であったが、大永5年(1525)頃に毛利元就が大内氏に与するようになってからは苦戦を強いられるようになり、天文元年(1532)8月には三男の塩冶興久が謀叛を起こし(塩冶興久の乱)、同年10月には分国の隠岐でも叛乱が起こるなど、尼子氏の先途に陰りが見え始める。
天文6年(1537)に隠退、家督を孫の晴久に譲る。
天文10年(1541)11月13日、84歳で没した。法号は興国院月叟省心大居士。
尼子氏はこの経久の時代に最盛期を迎え、本国の出雲国を中心に石見・伯耆・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨・隠岐の諸国に勢力を浸透させ、山陰地方の雄となった。