塩冶興久(えんや・おきひさ) ?〜1534

尼子経久の三男。宮内大輔。
名字の地である出雲国塩冶は、鎌倉時代に出雲守護であった佐々木塩冶氏が守護所を構えた地であり、経久もこの地を出雲国支配の要地と見て興久を入嗣させて配したものとみられる。
『陰徳太平記』などの軍記によれば、経久より3千貫の所領を委ねられて上塩冶の要害山城主として統治していたが、この所領を不足として、尼子氏本拠の月山富田城に近い原手郡(大原郡か)にて7百貫を要求したが却下され、代わりに他所での1千貫の加増を打診されたが興久はあくまで富田城近辺の地にこだわり、これが容れられないのは経久の側近であった亀井秀綱の讒言と思い込み、秀綱を擁護した経久とも不仲になったとされる。
興久と経久の軍事闘争の初見は、興久が兵を籠め置いた宍道湖東端の佐陀城を天文元年(1532)8月に経久の軍勢が襲撃したものであるが、この父子の反目はそれ以前から国外にも知られるほどとなっており、興久は城築大社国造や鰐淵寺といった寺社勢力や、かつて経久と敵対していた三沢氏らの国人領主などの支持をも得ており、さらには尼子氏の敵対勢力である大内氏や毛利氏にまで支援を期待していたふしもあり、単なる父子の対立に止まらず、国内を二分するほどの抗争に及ぶ危険を孕んでいた。
しかし経久勢に佐陀城を攻め落とされ、末次城の攻略を企図するもならず、妻の実家である備後国甲山城主・山内直通を頼って落ち延びたが(塩冶興久の乱)、天文3年(1534)に至って経久の意向を受けた直通に自害させられた。