備後国の国人領主。通称は次郎四郎。上野守。比婆郡本郷甲山城主。
備後国の山内氏は源頼朝に仕えた山内首藤経俊が備後国に所領を得て、鎌倉時代末期の通資の代に移住したことに始まり、室町時代には備後国北部の最有力国人領主となった。
直通は尼子氏に属し、天文元年(1532)8月に娘婿の塩冶興久がその実父・尼子経久に叛いて鎮圧された際には興久を保護しているが、2年後の天文3年(1534)には経久の圧迫を受けてか、興久を自害させている。
しかし天文4年(1535)に大内義興・毛利元就に転じたため尼子晴久から攻められることとなり、天文5年(1536)3月には落城寸前にまで追い込まれ、山内氏庶家の多賀山(高野山:たかのやま)通続の子・隆通を直通の孫娘に配して家督を継がせることで、存続を許された。