郡山(こおりやま)城の戦い

安芸国の毛利元就ははじめ出雲国の尼子氏に臣従していたが、天文6年(1537)に尼子家当主・経久が隠居して家督を孫の晴久(詮久)に譲ると、従属先を周防国の大内氏へと替え、その支援を受けて安芸・備後国の北部に勢力を拡張していった。これを憤った晴久は元就を征討するため、元就の居城・安芸国吉田郡山城攻めを企図したのである。
晴久は天文9年(1540)6月下旬、先遣隊として叔父・尼子国久ら新宮党に命じて備後路より3千の軍勢を送り込んだが、その行軍の途次、元就に与した甲立五龍城主・宍戸元源らの激しい迎撃を受け、このときは兵を退いた(犬飼平の合戦)。
そこで晴久は今度は自ら総大将として兵を率い、出雲国赤穴より石見国を経て安芸国口羽、多治比へと至る石見路から再び攻め入ったのである。

尼子勢は9月4日、郡山城の北方約4キロに位置する相合村の風越山に本陣を置いた。このときの軍勢は、尼子久幸、国久・誠久ら新宮党や出雲・伯耆・因幡・備前・美作・石見の分国から集められた大軍団であり、その総数は3万ほどといわれる。
この尼子氏来攻の報を受けた元就はすぐに大内氏に援軍を要請する一方で、城下の農民や町人を郡山城内に収容した。毛利方は総勢で8千とされているが、その大半はこの収容した領民たちであり、実質的な戦闘要員は3千にも満たなかったという。
戦いは9月5日から始まった。はじめのうち、尼子勢は吉田の町に放火してまわり、それを防ごうとする毛利勢との間に小競り合いが生じる程度だった。
本格的な戦いが始まったのは12日のことで、尼子勢が大挙して郡山城下に押し寄せ、後小路に放火したため、郡山城からは5百騎の精兵が出動して槍分に伏兵を置き、尼子方の数十人を討ち取った(槍分・大田口の合戦)。
23日、尼子勢は風越山から郡山城の南方にあたる青山・光井山(三塚山)の間へと本陣を移した。このことによって尼子勢は多治比川と数条の畷を挟んで郡山城と対峙することになった。
26日には尼子方の湯原宗綱が、毛利への援兵として駆けつけた小早川興景・杉元相(別称を隆相)の率いる大内軍先遣隊を迎撃するために向原の坂・豊島方面へと出撃したが、大内勢と呼応して郡山城からも軍勢が出撃してきたので、挟撃されて討ち取られた(池の内の合戦)。
10月11日に至って尼子誠久らが率いる新宮党が押し出し、多治比川を渡河して城下に進出しようとする構えを見せた。これに対し元就は迎撃のための軍勢を編成。赤川元保・児玉就方・平佐就之ら4百を先鋒として油畷より出撃させ、元就自らも後詰として兵を率いて出陣。この毛利勢に尼子方・三沢為幸隊があたって激戦となったが、元就は戦機を見計らって三日市から渡辺通・国司元相の5百、十日市より桂元澄ら2百の伏兵に三沢隊の両翼を衝かせて敗走に追い込み、三沢為幸を討ち取っている(青山土取場の合戦)。

そして12月3日、元就が要請していた大内義隆からの援軍本隊が到着した。大内氏からの援軍は陶隆房(のちの陶晴賢)率いる1万の軍勢で、翌天文10年(1541)1月11日には尼子本陣から郡山城への進軍を扼す天神山に布陣したことによって毛利勢は駆逐作戦の展開が容易となり、逆に尼子勢にとっては攻めにくくなった。
毛利勢はこの機を逃さず攻勢に出ることとし、1月13日に3千の軍勢を出して宮崎長尾に布陣していた尼子勢に攻撃をかけた。毛利勢は尼子勢の第二陣まで崩したが、後陣にあった吉川興経隊が力戦して支えたため、尼子勢を壊滅させるまでには至らなかった(宮崎長尾の合戦)。
一方、援軍の陶隊は尼子本陣の青光山の攻撃を決し、背後より急襲をかけた。このとき尼子勢は各所に分散して兵を出していたため本陣は手薄となっており、総大将である晴久も危機に陥ったが、久幸の奮戦によって免れることができた。しかしこの戦いで久幸は討死を遂げ、尼子勢は戦意を喪失。その夜の軍議で撤退を決めたのである(青光山の合戦)。
撤退を始めた尼子勢に対して毛利勢は追撃を敢行したが、積雪に阻まれて追撃は難航した。また、追われる尼子勢も撤退は思うようにいかず、途中の犬伏山や江の川で多くの兵を失ったという。
この敗戦がきっかけとなって、尼子氏は衰退の一途を辿ることとなったのである。