尼子国久(あまご・くにひさ) 1492?〜1554

尼子経久の二男。母は吉川経基の女。通称は孫四郎。刑部少輔・紀伊守。
邸宅が出雲国月山富田城の東北麓の新宮谷にあったことから、国久を頭領とする一族を『新宮党』と称し、尼子氏軍事力の柱石を成していた。
優れた武略で父・経久の領国拡大に尽力、経久の没後も甥にあたる次代の尼子氏当主・晴久を助けて活躍した。
しかし天文16年(1546)頃からは晴久と対立しただけでなく、国久の嫡男・誠久も武功に驕るところがあったことから、尼子宗家や譜代家臣の反感を買うようになり、この内訌を尼子氏勢力の減衰を目論む毛利元就の策謀に利用され、天文23年(1554)11月1日、新宮党に疑心を抱いた晴久によって誠久と共に誅殺された。
生年は不詳であるが、享年63との説がある。
国久父子誅殺の翌日には三男・敬久や残党も討たれたことによって新宮党は壊滅し、この新宮党の壊滅が尼子氏衰退の大きな原因になったといわれている。