児玉就方(こだま・なりかた) 1513〜1586

毛利家臣。児玉元実の子。児玉就忠の弟。内蔵允・周防守。常真と号す。
兄・就忠の推挙を受けて毛利元就の側近となる。
天文5年(1536)の安芸国生田城攻めでは戦功を挙げて元就から感状を与えられているが、天文9年(1540)9月から翌年1月にかけての郡山城の戦いにおいては、抜け駆けをしたために20日ほどの出仕停止を命じられた。
天文10年(1541)7月頃に毛利氏が佐東川(太田川)下流域から広島湾頭にかけて所領を得て、毛利氏直属の自家水軍を編成するにあたり、安芸国武田氏遺臣の水軍衆を取りまとめて育成に努め、のちには「川内警固衆」と称される毛利水軍の素地を築いた。
天文23年(1554)5月、毛利氏が陶晴賢(大内氏)と断交して攻勢に転じると、12日に攻略した草津城の城番に据えられ、ここを基地として広島湾を統御した。
天文24年(=弘治元年:1555)9月、就方自身も参陣したかは不詳だが、川内警固衆は陶晴賢との決戦に臨む毛利勢の本隊を厳島まで送り届けている(厳島の合戦)。
永禄4年(1561)の門司合戦において、9月8日に豊前沖で大友氏と海戦を行って首級7、生捕13、船8艘を捕獲するという戦果を挙げた。
永禄13年(=元亀元年:1570)の尼子氏との戦いでは、出雲国の加賀浦・森山など日本海まで出撃し、兵糧船数艘を捕獲した。
天正14年(1586)6月9日に死去した。享年74。