安芸国の毛利元就ははじめ大内氏に、大内氏が天文20年(1551)に陶晴賢によって滅ぼされてからは陶氏に従属していた。元就は晴賢のこの行動を是認したわけではないが、大内氏滅亡によって生じた勢力の空白を乗じ、毛利氏の勢力基盤を確固たるものにすべく動いていたのである。
そして天文23年(1554)5月に陶氏と決別、同年9月の折敷畑の合戦では勝利したが、この合戦における勝利だけでは、力関係においては依然として陶氏が優位のままであることに変わりはなかった。このままではいずれ陶氏によって討滅されるという危機感を抱いた元就は、来るべき陶氏との決戦に備えて幾つかの手を打ち始めていた。
その一つが離間策である。元就が狙いをつけたのは、陶氏の安芸侵攻には先鋒を務めると噂されていた江良房栄だった。元就は間者を山口城下に送りこみ、「江良房栄は毛利元就と手を結び、毛利討伐の際に寝返って陶氏を討つ手筈になっているらしい」という噂を広めさせ、さらには房栄の筆跡を真似た房栄から元就宛の誓書を偽作し、それを山口城下に落としてくるというまでの念の入れようだったという。この離間策の実在には疑問の残るところもあるが、江良房栄が陶・毛利氏の決戦以前に誅伐されたことは事実だったようである。
その頃の陶氏の最大動員兵力は2万を超すといわれているが、対する毛利氏は4千程度であり、まともに戦っては勝ち目がない。この兵力差を覆すために決戦場をどこに設定するか、そこにも元就の謀略が働いていた。
思案の末、元就が選んだのは厳島であった。ここは陶氏にとって安芸支配の拠点であり、陶氏の水軍にとっても重要な基地でもあった。天文24年(=弘治元年:1555)5月、元就は厳島有ノ浦北方の岬に宮ノ尾城(別称:宮ノ城)を築き、陶方から毛利へと寝返った己斐豊後守・新里宮内少輔の2人の武将に城の守備を任せたのである。
これは晴賢を刺激するに十分であった。さらに元就は間者を使い、「厳島に兵力を割いたのは失敗だった。いま厳島を攻められたらひとたまりもない」と後悔しているという噂を流させたのである。それだけでなく、桜尾城を守っていた桂元澄に命じて「晴賢が厳島を攻めれば元就も軍勢を率いて宮ノ尾城の後詰に向かうであろうから、そのとき自分は晴賢に味方して元就の背後を攻めるつもりだ」という、晴賢宛の偽りの内応の書状を書かせ、それを届けさせたともいわれている。こうして陶軍の矛先を厳島に向けるように仕向け、事前の準備が整えられた。これと並行して、元就は伊予国の村上水軍の協力をも取り付けている。
陶勢が厳島へと渡海したのは天文24年9月21日であるが、これに先立っての9月7日よりの軍議において、陸上侵攻策か海上侵攻策か、それとも陸海併進を取るかが決められた。正道から言えば陸路より安芸国佐西郡の桜尾城を落とし、そのあとで草津・己斐・仁保島・銀山の諸城を落としてから北上して毛利氏の本城である吉田城へ軍を進めるべきだという意見が強かった。特に弘中隆兼は「元就が厳島に宮ノ尾城を築いたのは、我らを誘き寄せて奇襲攻撃をかける魂胆であるから、決してその罠にはまってはならない」と強硬に反対した。しかし晴賢は、宮ノ尾城があるがために瀬戸内の制海権を握られてしまうこと、それによって海路による兵站の補給ができなくなること、莫大な富をもたらす厳島神社の門前町を毛利氏の傘下に委ねておくことはできないことなどを主張して、なかば強引に海進策を取ることに決めたのであった。
9月21日に厳島大元浦に到着した陶勢2万は、翌22日に勝山の厳島城に本陣を置いて宮ノ尾城を窺った。そして途上の塔ノ岡が障害となることを見越し、本陣を塔ノ岡より百メートルほど東へ上がった丸山壇まで進めたのである。
陶軍による宮ノ尾城攻撃は23日より始められた。城攻めの指揮は三浦清房が執り、新兵器である鉄砲を用いたりもしたが、この城は3方が海に接した岬に築かれていて、残る一方も尾根続きであったために攻めにくく、毛利方の水軍が夜陰に乗じて海上より物資を補給していたため、城は容易に落ちる気配を見せなかったのである。そこで晴賢は宮ノ尾城への水の手を切り、飲料水の補給を断った。これが27日のことである。その日、晴賢は軍議を開いて総攻撃の日を10月1日と定めた。
一方の毛利軍の動きであるが、9月24日に元就の長男・隆元が先陣として郡山城を出発し、草津城に入った。27日には元就も同城に入った。毛利方の軍勢は4千ほどである。
元就が宮ノ尾が攻撃されていることを知りながらも渡海を延引させていたのは、村上水軍の来援を待っていたからである。約定を取り付けたとはいえ、村上水軍は独立勢力であり、毛利の属軍ではない。条件や戦況の次第によっては陶方に味方することも十分に有り得るのである。毛利の水軍だけでも厳島に渡海することは可能であったが、元就の描いた筋書き通りに陶軍を一挙に殲滅するには心許ない規模だったので、元就にはなんとしてでも村上水軍の協力が必要だったのである。宮ノ尾城での戦況を知らせる報告を聞きながら、元就は村上水軍を待った。
そして28日。ようやく村上水軍が到着した。元就が村上水軍の援助を諦め、自家水軍での渡海を決意した、まさにそのときだったのである。元就は早速に軍議を開き、29日の夜に渡海作戦を断行するに至ったのである。
そして29日、元就・隆元・吉川元春らの主力軍は日没とともに行動を開始し、折からの暴風雨をおして渡海して東北岸の鼓ヶ浦(包ヶ浦)に上陸、晴賢が本陣を構えていた厳島の塔ノ岡に迫った。この暴風雨の中の渡海にあたって船頭たちはは見合わせることを進言したが、元就は「この暴風雨こそ天の御加護。陶方は油断しているに違いない。この好機を逃してはならぬ」と一蹴したという。また小早川隆景・村上水軍率いる別動隊は地御前から海岸沿いに大野・玖波を迂回して有ノ浦に着き、宮ノ尾城の味方と合流した。
合戦が開始されたのは翌10月1日の夜明けであった(暦では、この年の9月は29日までで、30日は存在しない)。夜が白み始めるのと同時に鼓ヶ浦・塔ノ岡の両方から一斉に攻撃が開始され、不意に挟撃された陶軍は狭い島の中で、しかも2万という大軍であったために思うように動けず、とうとう総崩れとなってしまったのである。四散した陶勢は大元浦から海上へ逃れようとしたが、待ち構えていた毛利水軍と村上水軍によって撃沈あるいは拿捕された。陶勢は完全に退路を断たれていたのである。
晴賢はいったん本拠の山口に逃れて再挙を図るため、大元浦から大江浦へと船を求めて逃走したが舟を得ることができず、毛利勢の追撃に追い詰められて高安原で自刃した。また三浦房清・弘中隆兼の隊も個々に撃破され、両名とも戦死した。
3日頃までには陶勢の敗残兵も掃討され、5日には晴賢の首級も発見されたことによって、厳島の合戦は毛利方の完勝として終決した。この合戦における陶軍の戦死者は4千7百余といわれ、凄まじい激戦だったということが窺える。