弘中隆兼(ひろなか・たかかね) ?〜1555

大内家臣。父は興兼。中務丞・三河守。
大内義興大内義隆義長の3代に亘って仕え、専ら安芸・備後国の経略にあたった。
享禄2年(1529)5月に毛利元就が尼子方に転じた安芸国松尾城主の高橋弘厚を攻めた際には援軍として出陣し、天文5年(1536)には尼子氏に与する平賀興貞の拠る安芸国頭崎城を攻めるなど、大内氏の安芸国東西条の代官として安芸国経略に尽力した。
毛利氏の活躍などによって安芸国の経略が安定に向かうと、天文12年(1543)7月には大内義隆から西条守護に任ぜられて安芸国西条槌山城に入城、安芸国に加えて備後国の経略も兼任。この頃には義隆より備後国南半の軍事統轄権を与えられていたとみられ(北半は毛利元就)、同年に大内氏麾下の沼田小早川氏の備後国高山城が尼子勢に攻められた際には、後詰として赴いている。
天文20年(1551)の大内義隆没後は陶晴賢に属して大内義長に仕える。
天文24年(=弘治元年:1555)には晴賢の指示を受け、毛利氏への内通を疑われた江良房栄を謀殺した。また同年の厳島の合戦には晴賢に従軍して厳島に渡って毛利勢と戦い、総大将の晴賢敗死後も陣を構えて抗戦を続けたが、10月3日に討死を遂げた。