豊後国の大名・大友義鑑の子。母は大内義隆の姉。大友宗麟の実弟。幼名は塩乙丸。通称は八郎。初名を大友晴英(はるふさ)。
天文13年(1544)頃、将来に実子がなければ後嗣とするという含みで大内義隆の猶子となり、義隆は将軍・足利義晴に請うて大内周防介晴英と称させた。ところが天文14年(1545)、義隆に男児の義尊が誕生したために疎んじられたという。
その義隆は文弱に流れたため重臣・陶隆房(のちに陶晴賢と改名)と不和になり、再三の諫言に耳を貸そうとしない義隆に対して晴賢は謀叛を計画する。それに随して晴英(義長)を大内氏の次期当主に迎える動きが起こった。
天文20年(1551)、晴賢は義隆を討つことに成功する。義隆を討った陶晴賢に迎えられて天文21年(1552)2月、豊後国府内から山口に入り、大内氏を継いだ。
翌天文22年(1553)の春、将軍・足利義輝の諱を受けて義長と改名。
実権は晴賢に握られていたが、従属させていた毛利元就に尼子攻めを命じるなど、往年の大内氏の威光を保つべく努めたが、天文23年(1554)には毛利氏が大内氏より離反、そして天文24年(=弘治元年:1555)10月の厳島の合戦で晴賢が毛利氏に討たれてからは急速に力を失った。
その後、周防・長門両国の攻略に乗り出した毛利氏と抗争を展開したが、支えきれずに山口を捨てた。内藤隆世に護られて高嶺(鴻峯)山城に拠ったが、これもまた毛利勢に抜かれ、弘治3年(1557)4月3日、長門国豊浦郡長府の長福寺で自刃した。
ここに大内氏は名実ともに滅亡したのである。