陶晴賢(すえ・はるかた) 1521?〜1555

大内氏の譜代重臣。陶興房の二男。母は陶弘詮の女。通称は五郎。初名は隆房。中務大輔・尾張守。
天文8年(1539)に父・興房の死去によって家督を相続し、中国地方の大大名・大内義隆の筆頭家老として政務の中枢に携わり、周防守護代をも兼ねた。
気質は剛勇で「西国無双の侍大将」と評され、家臣にも手厚く接するなど、人物も優れていたという。
天文9〜10(1540〜1541)の両年、安芸国の毛利氏を援助して、侵攻してきた尼子晴久勢を破る(郡山城の戦い)などしばしば戦功を挙げたが、自身の提言による尼子氏攻め(月山富田城の戦い)が失敗したこと、異常なまでに都文化や公卿風の豪奢な生活に傾倒する主君・義隆に諫言を繰り返したことなどから、文治派側近の相良武任らと対立した。
しだいに叛意を強め、大内氏重臣の内藤興盛杉重矩を味方につけるなど、謀叛の計画は着々と進められた。この晴賢の行動は隠密裏というわけでもなく、なかば公然のものであったとされるが、義隆は晴賢を信頼しきっていたのか、処罰を受けることもなかった。
天文19年(1550)11月になると自城の周防国富田若山城に帰り、それより長期不出仕となった。そして天文20年(1551)8月28日に挙兵して義隆邸宅を襲撃し、9月1日に長門国深川大寧寺で自殺させた(大内館の戦い)。
その翌年(1552)の3月には、大友宗麟の弟・晴英を迎えて大内義長と名乗らせ、大内氏の跡継ぎに据える。このとき、晴英の一字をうけて隆房から晴賢へと名を改めた。これに先立つ天文20年5月、義長の実父である大友義鑑に対し、義隆父子を討って晴英を大内氏当主に迎えることの同意を得ていたという。
その後は大内氏の実権を握り、各地に侵攻する。
石見国津和野の吉見正頼を攻めているとき、安芸国の毛利元就が決起した(折敷畑の合戦)ため、天文23年(1554)に吉見氏とは和睦した。
天文24年(1555)9月、毛利氏討伐のために安芸国佐伯郡厳島においてこれを迎え討とうとしたが(厳島の合戦)、元就の奇襲にあって大敗し、大江の浦にて自刃した。35歳という。法名は卓錘軒呂翁全姜大居士。