周防国山口を本拠とする大内義隆は、周防以下、長門・豊前・筑前・石見・安芸を守護領国とする中国地方の大大名であったが、天文11年(1542)から翌年にかけて出雲国の尼子氏を攻めて大敗を喫して(月山富田城の戦い)以来は軍事から遠ざかり、京文化や文芸に身を置く生活に耽溺するようになっていた。
この武事を怠る様相を危ぶんだ陶晴賢(当時の名乗りは陶隆房)ら武断派の重臣らは義隆に諫言などもしたが聞き容れられず、しだいに義隆や義隆に追従する文治派の重臣らとの確執が深まるところとなり、ついに晴賢は謀叛を起こす決意を固めたのである。
晴賢が意を決した時期は確定できないが、安芸国の毛利元就らが義隆に招かれて山口に滞在していた天文18年(1549)2月から5月の間に、たびたび接触を図っていたことが記録に残る。これは晴賢が毛利氏を自陣営に取り込むためと目されていることから、それ以前から構想が練られていたと思われる。
晴賢の叛意は、天文19年(1550)には誰もが察するところとなっていた。
晴賢と不仲であった杉重矩は、はじめ文治派の相良武任を通じて「晴賢に謀叛の疑いあり」と義隆に訴えていたが、この頃には晴賢に加担するようになっており、さらには内藤興盛もこれに与することになっていた。
義隆は恒例となっていた9月15日の今八幡宮と周防三宮の例祭への参詣を取りやめているが、これは祭礼のとき陶方の襲撃があるとの風聞が広がったためという。
また、晴賢は11月27日には暇を請うて居城の富田若山城に帰り、以後は不出仕となった。義隆はこれらのことを受けて翌天文20年(1551)1月下旬に弘中隆兼を使者として毛利氏に遣わし、「山口に兵乱があれば来援を請う」旨を伝えていることから、義隆自身もが不穏な空気を察していたことは明らかである。
晴賢らの謀叛の内容は、当初は義隆を当主の地位から隠退させてその子・義尋に挿げ替え、自分たちで家中の運営を主導しようとするものであったが、のちには義隆父子を排し、義隆の姉の夫である大友義鑑の三男・大友晴英(のちの大内義長)を大内氏当主に迎えるという方針に転換され、前年2月の二階崩れの変で大友氏家督を継いでいた大友宗麟もこれを了承している。
天文20年8月、謀叛はついに決行される。
晴賢は8月20日に安芸国の厳島や神領の佐伯郡を占拠し、桜尾城を奪取した。さらには義隆が恃みとしていた毛利氏も陶勢に呼応して佐東郡に軍勢を進め、銀山城を手中に収めたのである。
この頃、義隆は大友氏の使者や京都からの客人を接待するために能の興行や宴を催していたというが、陶・毛利勢への対策はとくに成されなかったという。
そして8月28日、陶・杉・内藤らは軍勢を調えて進軍し、29日の昼には山口の大内館を襲撃するに至った。
この襲撃を受けた義隆父子は闇に紛れて日本海側に出て、長門国仙崎から海路九州へと落ち延びようとしたが、荒天のためにそれも叶わず、長門国深江の大寧寺で自害した。
天文20年9月1日のことであった。