毛利隆元(もうり・たかもと) 1523〜1563

安芸国の戦国大名・毛利元就の嫡男。吉川元春小早川隆景の同母兄。母は吉川国経の娘・妙玖。安芸国多治比猿懸城で生れた。通称は少輔太郎。従四位下・備中守・大膳大夫。
天文6年(1537)12月、毛利氏が周防国の大大名・大内氏に従属する際の人質として周防国山口に赴き、12月19日の元服の際には大内義隆から加冠されて隆元と名乗り、天文10年(1541)1月まで山口に滞在した。
天文15年(1546)6月頃に父・元就から家督を譲られて毛利氏の当主となるが、この家督譲渡は隆元の自立や家中の統制力強化を促すためであったと見られ、実際には未だ元就が実権を握っていた。
天文18年(1549)(一説にはこの前年とも)、大内義隆の養女(実父は大内氏重臣・内藤興盛)を妻に迎える。
家督継承後も謙譲に元就を立てて中国地方の経略に従うが、天文20年(1551)に烏帽子親である大内義隆を滅ぼした陶晴賢との関係について、従属か断交かに悩む元就に断交を強く進言し、家中を決起へ導く主導的役割を果たしている。
その後、毛利氏が陶晴賢、ついで大内義長を滅ぼしたのちの弘治3年(1557)4月に元就が隠居する意向を示したときには慰留に努め、「(元就が)隠居を思い留まらないのであれば自分も子の幸鶴丸(のちの毛利輝元)に家督を譲って隠退する」と、気弱な思いを吐露してまで固辞しているが、ついには元就が後見を続けること、それぞれが吉川氏・小早川氏の当主となっていた弟の元春・隆景を補佐役として毛利宗家の運営にも参画させることを条件として毛利氏惣領の地位に就いた。この結果、同年11月に元就より三子宛てに兄弟や一族の和を説く教訓状が出され、毛利氏発展の原動力となった『毛利の両川』と呼ばれる体制の基礎が調えられることになる。
永禄3年(1560)に安芸、永禄5年(1562)には備中・備後・長門国の守護となる。
永禄5年7月頃より開始された出雲国への侵攻に出陣したが、尼子氏と結んだ豊後国の大友宗麟が豊前国の毛利方勢力を脅かしたことを受けて転進し、翌永禄6年(1563)1月には周防国府中に赴いて前線の指揮を執りつつ和談の調整にあたる。その後、出雲国に駐留していた軍勢に合流する途次の安芸国佐々部で和智誠春の宿所において饗応を受けた直後の8月4日に急死した。死因は食傷とも毒殺ともいわれ不詳である。享年41。法名は常栄寺殿光禄大夫華渓大禅定門。