桂元澄(かつら・もとずみ) 1500〜1569

安芸国毛利氏の譜代家臣。坂広正(別称を広明)の孫。桂(坂)広澄の長子。毛利氏の庶流にあたる。左衛門尉・能登守。妻は福原広俊の娘。後妻は志道広良の娘。
この元澄の家系は、祖父・広正までは坂氏を称していたが、桂村に居住したことから父・広澄の代より姓を桂として名乗るようになった。
大永3年(1523)7月の毛利幸松丸没後、毛利元就に毛利宗家の家督相続を要請した15人の宿老のひとり。
翌大永4年(1524)、同族の坂広秀らの元就への叛逆が露見したことを受けて父・広澄が元就の制止を聞かず自刃したため、その咎で元澄・元忠兄弟も誅されることを覚悟したというが、元就に説得されて仕えた。
天文20年(1551)9月、大内義隆に叛いた陶隆房(のちの陶晴賢)と同調する元就の命を受け、熊谷信直とともに大内方の阿曽沼氏の拠る鳥籠山城を攻めて降した。
天文23年(1554)5月、毛利氏が陶氏と断交すると桜尾城を預かり、以後はその守衛にあたる。
天文24年(=弘治元年:1555)の厳島の合戦の直前には陶方に内応する旨の偽書状を作成して陶勢の陽動に重要な役割を果たしたともいい、厳島での決戦時には毛利氏の本拠・郡山城の留守を預かった。
毛利氏が厳島を勢力下に収めたのちは廿日市周辺の統治に意を注ぎ、永禄元年(1558)閏6月の厳島神社の造営修理に際しての人足調達や、永禄4年(1561)の大鳥居用材木の調達など、厳島を含む神領などの管理を行っている。
永禄12年(1569)7月5日死去。70歳。
桜尾城には元就四男の穂井田元清が入城するまで在番を続けており、元澄の死後、その遺領は五男の広繁が相続して元清を補佐した。