志道広良(しじ・ひろよし) 1467〜1557

毛利家臣。志道元良の嫡男。口羽通良の実兄。大蔵少輔・上野介。
志道氏は安芸国毛利氏の庶流である坂氏からさらに派生した一族で、坂広秋の四男・元良が安芸国高田郡志道村に居住したことから志道姓を名乗るようになった。
毛利氏の当主が毛利興元の時代、16世紀初頭の文亀年間にはすでに毛利氏の執権の地位に在ったことが推察され、安芸国に勢力を浸透させつつあった大内義興が幕府管領・細川政元と対立した際には、主家の毛利氏を大内方に靡くように画策している。また永正10年(1513)3月には、興元の弟で分家を立てていた毛利元就と「共に力をあわせて主家に奉公しよう」とする旨の誓紙を交換するなど、執権職として家中の統制や主家の安泰に意を砕いている。
永正13年(1516)の興元の死後は幼少の遺児・毛利幸松丸を補佐したが、大永3年(1523)に幸松丸が死去して毛利宗家の相続問題が持ち上がると、当初から元就を推して福原広俊・粟屋元秀・国司元相らと共に家中の意見を迅速に取りまとめ、毛利氏の去就に影響を及ぼしつつあった尼子経久の介入を未然に防ぐという辣腕ぶりを見せている。
元就が毛利宗家の家督を相続したのちも執権として政務の中枢に在り、元就の片腕となって近隣勢力との取次ぎに能力を発揮している。
晩年は元就の依頼を受けて元就の嫡子・毛利隆元の教育に尽力し、「水あっての船、つまり家臣があってこその大名である」と、家臣の立場から名将の心得などを説いた。また、毛利氏が大内義隆に従属するにあたり、その人質として隆元が天文6年(1537)12月に周防国山口に赴いた際にも随伴している。
弘治3年(1557)7月1日死去。91歳。法名は瑞卜道亀。