毛利興元(もうり・おきもと) 1493〜1516

安芸国の国人領主。毛利弘元の嫡男。母は福原広俊の娘。幼名は幸千代丸。通称は少輔太郎。妻は高橋久光の娘。治部少輔。毛利元就の同母兄。
明応9年(1500)3月に父・弘元の隠居にともなって家督を相続し、幼くして安芸国吉田郡山城の城主となった。
永正3年(1506)1月に弘元が死没すると大内義興に服属し、翌永正4年(1507)11月6日に元服した際に義興より一字を与えられて興元と名乗った。同年に前将軍・足利義稙を奉じて京都に攻め上った義興に従って出征し、約4年間に亘って在京。この間の船岡山の合戦にも従軍している。
帰国後の永正9年(1512)3月、安芸国の有力国人領主8家(天野興次・天野元貞・平賀弘保・竹原小早川弘平・阿曽沼弘秀・野間勝興・吉川元経・高橋元光)と国内秩序の安定を目的として一揆契約を結んだ。これは安芸国や隣国における情勢に流動的に対応するよう申し合わせたものであり、大内氏や出雲国の尼子氏への対応を念頭においたものとみられる。
また、所領を持っていた備後国の安定も図っており、永正9年10月には山内氏と木梨杉原氏の抗争に、沼田小早川興平と共に和平調停を行うなど、安芸・備後国の国人領主層の主導者格として重きをなした。
永正13年(1516)8月25日に死没。享年24。酒害のためといわれる。