熊谷信直(くまがい・のぶなお) 1507〜1593

安芸国三入荘を本領とする国人領主。熊谷元直の子。母は宮若狭守の娘。兵庫頭・伊豆守。安芸国高松城主。
熊谷氏は桓武平氏の流れを汲み、平直方の曾孫・直貞が武蔵国熊谷郷に居住して名字としたのが始まりとされる。直貞の子・直実は平敦盛を討ったことで著名。直実の曾孫・直時の代に安芸国三入荘の地頭職を与えられ、その子孫が土着して国人領主に成長した。
室町時代には安芸国分郡守護の武田氏に属し、信直は父・元直が永正14年(1517)10月の有田の合戦で戦死したことを受けて家督を継いだが、武田光和が側室としていた信直の妹を離縁したこと、信直が武田氏麾下の可部城主・山中成祐を圧迫して所領を横領したため居城の高松城を攻められたことなどから不和となり、天文2年(1533)に武田氏のもとを離れて毛利氏の臣となった。
天文9年(1540)に毛利氏が尼子氏に郡山城を攻められた際(郡山城の戦い)には高松城に拠り、尼子氏に与する武田信実(武田光和の後継)の動きに備えている。
天文16年(1547)に娘を毛利元就の二男・吉川元春に嫁がせて毛利氏および吉川氏との関係を深めた。これよりのち元春に従って毛利氏の先鋒として活躍し、総所領高は1万6千石に及んだ。これは国衆としては最高の知行高であった。
文禄2年(1593)4月28日、文禄の役に出征中の嫡孫・元直に宛てて毛利氏に忠誠を尽くすことなどを記した遺言状を認め、5月26日に没した。享年87。