有田(ありた)中井手(なかいで))の合戦

安芸国佐東銀山城主の武田元繁は若狭守護・武田氏の一族であるが、元繁の父・元網が応仁の乱最中の文明2年(1470)に主家である若狭国武田氏に叛き、文明13年(1481)に和解して以来は安芸国における代官として武田氏の所領を統べていた。しかしこの頃は周防・長門・豊前・筑前4ヶ国の守護を兼ねる大内氏が安芸国にも勢力を浸透させており、元繁も大内氏に服属しているのが実情であった。
大内氏の当主・大内義興は庇護下にあった前将軍・足利義稙の要請を容れて永正4年(1507)11月より畿内に向けて出征するが、元繁もこの大内勢の一員として従軍した。
畿内に軍勢を進めた義興は将軍・足利義澄や管領・細川澄元を駆逐して義稙を将軍職に復帰させ、自らは管領代として京都に在って幕政を総覧する。元繁もこれに従って在京していたが、大内勢力下にあった安芸国厳島神社の神主家の内訌を鎮めるため、永正12年(1515)に義興より帰国を命じられたのである。
しかし、帰国した元繁は大内氏からの自立を企て、神主領の佐西郡に侵攻して己斐城を包囲した。これを知った義興は安芸国の国人領主・毛利興元に己斐城の支援を命じた。興元が己斐城後巻のために武田方の有田城を陥落させると己斐城の包囲は解かれ、大内勢の手に落ちた有田城は、もとは吉川氏の城であったので吉川元経に与えられた。
その翌年8月、毛利氏では当主の興元が病死したため2歳の遺児・幸松丸が家督を継承したが、毛利氏の弱体化は否めず、これを見て取った元繁は永正14年(1517)に至って有田城の奪還、さらには隣接する毛利氏領への侵攻を企図して攻め込んだのである。
この急報を受けた毛利氏は自領防衛の観点からも有田城の救援を決め、吉川勢と連絡を取りながら10月22日に有田城下の中井手に出陣し、武田方の熊谷元直隊を撃破して元繁の本陣に迫った。元繁はこれを迎撃しようと又打川を渡ろうとしたが、弓矢に中って落馬したところを毛利勢の井上光政に首級を挙げられ、武田勢は総崩れとなったのである。

この合戦は毛利元就の初陣として知られ、のちには「西の桶狭間」とまで称されて元就の武勇が喧伝されているが、事実は元就が中心となって指揮を執ったというわけではなく、あくまで毛利方武将のひとりとして出陣した合戦とされる。
ただし、大内義興からの感状には「多治比(元就を指す)のこと神妙」とあり、その存在が着目されるきっかけになったという意味では、立身への第一歩となった合戦である。