駿河・遠江・三河の3ヶ国の太守として勢力を拡大していった今川義元は、やがては尾張国にも進出の様相を見せる。一方、尾張国において織田信秀の死後にその跡を継いだ織田信長は、同族との戦いを乗り越えてようやく永禄2年(1559)の段階で尾張守護代・岩倉城の織田信安を倒し、尾張の大半を統一したという状態だった。
永禄3年(1560)5月、義元は西へと向けて兵を動かした。この西上の目的は「上洛し、天下に号令するため」とするものが通説とされている。しかし信長はこの頃、今川勢力下の鳴海城・大高城攻略のための措置として砦を築いたりしているので、上洛目的ではなくそれらの織田勢力の駆逐、あわよくばそのまま尾張侵攻を目論んでのこととも考えられる。
5月10日、今川勢の先発隊として遠江国井伊谷城主・井伊直盛が出陣。義元率いる本隊2万が駿河国駿府城を出発したのが12日のことで、翌13日に掛川城に着陣。その頃、先発隊は既に天竜川に到達。14日に引馬城、15日に吉田城、16日に岡崎城と本隊は進軍しているが、先発隊は知立にまで達していた。17日にここで本隊と合流、18日には本陣を沓掛に進めた。このときの今川勢の兵数は約2万5千という。
ここで義元は諸将を集めて作戦の指示を行った。同じ日の夜、織田家の清洲城においても軍議が開かれたが、信長は重臣らの困惑を介さず、作戦の指示も出さずにさっさと寝所に引き上げたのであった。
5月19日早暁、今川方は織田方拠点への一斉攻撃を開始した。
松平元康(のちの徳川家康)は石川家成・酒井忠次を先鋒として、大高城の付城・丸根砦を攻め、砦を守っていた佐久間盛重を降した。
また、同じく付城の鷲津砦を攻めた朝比奈泰能の軍勢も、砦を守っていた飯尾近江守・織田隠岐守を破った。
この両砦の陥落が午前8時頃という。
一方の信長は、丸根・鷲津の砦への攻撃が開始されたという報を得ると、慌しく食事を取ったのちに数人のみで出陣した。「人間五十年…」で知られる「敦盛」を舞ったのはこのときである。午前8時頃に熱田神宮に着き、丹下を経て善照寺砦に行き、ここで軍勢が集まるのを待った。
丸根・鷲津砦攻略という緒戦に勝利した今川軍の義元本隊は沓掛城から大高城への進軍しており、正午頃に桶狭間南方の、俗に「桶狭間山」と呼ばれる小高い丘陵に布陣した。その今川本隊の前衛部隊は大高城の付城・中島砦へと向けて進軍している。
一方の信長隊は善照寺砦から中島砦へと向けて移動。集まった兵は2千ほどである。信長隊は即座に攻撃を開始した。
今川前衛部隊の兵力は5、6千ほどと考えられているが、その大部分が非戦闘要員ないし臨時に駆りだされた者であり、実戦力となる精鋭は少なかったと見られる。それに比べて信長勢2千はそのほとんどが武士で構成されており、精鋭部隊であった。信長隊は今川前衛部隊を突き破り、さらに前進した。
午後1時頃といわれているが、それまでの晴天が嘘のように激変し、突然の激しい夕立が辺りを襲った。この暴風雨のために沓掛峠の巨大な楠木が倒されてしまったという。その嵐と共に、信長率いる2千の精兵が義元本陣へと向けて突撃を敢行したのである。
今川勢は多勢であったが、それゆえに間道を通ったときに軍列が伸びきってしまっていていた。2万5千の軍勢も用を成さなかったのである。緒戦の勝利による油断、長く伸びすぎた兵站線、監視の目を奪う激しい風雨。すべてが今川勢にとって不利であった。
信長隊は義元本陣へと襲いかかった。義元の乗る塗輿を守る旗本たちはしだいにその数を減らしていく。乱戦の中、義元は服部子平太忠次に一番槍をつけられ、毛利新介良勝に首をはねられてしまったという。
主君を失った今川勢は統制が全く執れなくなり、それぞれの隊が勝手に手勢をまとめて自領に敗走してしまったという。
従来の通説では、信長は熱田神宮で隊列を整えたあとに善照寺砦に進み、本隊はそこに留まっているように見せかけ、信長自ら2千の軍勢を率いて迂回、田楽狭間(田楽ヶ窪)付近で休憩している義元本隊のそば近くまで進み、奇襲をかけたということになっているが、実際はこのように正面から今川勢を突き破って勝利したようである。
今川義元本隊の総崩れを知った松平元康は、この機に乗じて古巣である岡崎城を回復、今川氏からの独立へと乗り出すことになった。