酒井忠次(さかい・ただつぐ) 1527〜1596

徳川家臣。酒井忠親の二男。通称は小平次・小五郎。左衛門尉・左衛門督。号は一智。
松平広忠に仕え、その妹の碓井を娶る。広忠の死後は今川義元の人質として駿河国府中(駿府)にあった松平竹千代(のちの徳川家康)に近侍し、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦ののちに家康が自立すると、その家老となった。
徳川四天王』のひとりで、優れた政治・軍事手腕と縁戚のゆえをもって重用された。
永禄6年(1563)の三河国一向一揆の鎮定戦(上和田の合戦)などに力戦、永禄7年(1564)に今川氏の三河国における拠点である吉田城を計略を用いて無血開城させた。この功で吉田城主となり、東三河の旗頭として、石川家成(のち石川数正)とともに徳川氏の筆頭宿老となる。
元亀元年(1570)6月の姉川の合戦、元亀3年(1572)末の三方ヶ原の合戦にも従軍し、戦功を挙げている。
天正3年(1575)5月の長篠(設楽ヶ原)の合戦においては別働隊を率いて武田方の鳶ヶ巣山砦を攻略、武田勢の退路を断つことに成功した。
天正10年(1582)には信濃経略戦で采配を揮い、小牧・長久手の合戦後の天正14年(1586)に家康が上洛するときに随行し、羽柴秀吉より在京料として近江国内で1千石の知行を受け、従四位下・左衛門督に叙任された。
天正16年(1588)10月に62歳で致仕して家督を子・家次に譲り、剃髪して一智と号して隠居した。
慶長元年(1596)10月28日、京都桜井の隠居屋敷で没した。70歳。法名は天誉高月縁心先求院。
意外にも、『蜆(しじみ)すくい』の踊りが得意だったという。