松平広忠(まつだいら・ひろただ) 1526〜1549

大永6年(1526)4月、三河国岡崎城で生まれた。幼名は千松丸(千満とも)といい、仙千代・竹千代とも称した。通称は次郎三郎。徳川家康の父である。
父は安祥松平氏で松平一族の惣領・松平清康、母は青木貞景の娘。
天文4年(1535)12月、10歳のときに父が横死した(守山崩れ)のち、桜井松平氏の松平信定に所領を逐われて伊勢国に流され、阿部定吉らの家臣に庇護されながら三河・遠江を転々とするが、天文6年(1537)6月に今川義元や吉良持広の援助で岡崎入城を果たし、以後は岡崎城が松平惣領家の本城となる。
同年12月9日、吉良持広の加冠によって元服。
東進を図る尾張国の織田信秀と争い、天文9年(1540)6月に安祥城を奪われた。
天文10年(1541)、水野忠政の娘・於大と結婚。
天文11年(1542)の小豆坂の合戦でも信秀に敗れ、天文12年(1543)には専横の振る舞いが強かったとされる叔父で三木松平氏の松平信孝を追放したため、信孝は織田方に奔った。同年7月、岳父である忠政が没し、その後嗣である水野信元が織田氏に属したために於大を離別、天文14年(1545)に渥美郡田原城主・戸田康光(別称:戸田宗光)の娘(真喜姫)を後妻に迎えた。
天文16年(1547)、織田信秀が岡崎攻撃の軍勢を動かしたため、義元に助けを請うた。その条件として人質を要求され、息・竹千代(家康)を駿府に向けて送るが、その途中で信秀に通じた岳父・康光に奪われた。
人質の奪還はならずとも、今川義元の援助と信頼を得て三河鎮定に邁進、織田信秀との抗争を続けるが、天文18年(1549)3月6日、近臣・岩松八弥の凶刃に襲われ、岡崎で斃れた。24歳。法名は瑞雲院殿応政道幹。この岩松八弥は織田方の武将・佐久間全孝の意を受けた刺客であったという。