守山崩(もりやまくず)

三河国をほぼ制圧した松平氏の惣領・松平清康が、出陣先の尾張国守山の陣中において天文4年(1535)12月5日、近臣の阿部正豊(弥七郎)に殺害された事変。
事の顛末であるが、正豊の父・阿部定吉が清康への反抗を企てているとの風説があり、それを耳にした定吉が正豊に「誅伐を受けるかもしれない」と語っていた。そしてその翌朝、陣中で馬が暴れるという騒ぎが起こり、清康が指揮してその馬を捕えていたところ、その騒ぎに気づいた正豊は定吉が誅伐されたと勘違いし、父の恨みを雪ごうとして清康を殺害したものという。
正豊はその場で殺害されたが清康も死亡、25歳の若さだった。
突然に惣領を失った松平氏はこの後、衰退の一途をたどることになった。