水野信元(みずの・のぶもと) ?〜1575

三河国の国人領主。緒川水野氏。水野忠政の嫡男。水野忠重の異母兄。通称は藤七郎・四郎右衛門。名を忠次とも。下野守。三河国刈谷城主。
水野氏は今川氏に属し、尾張・三河国の国境地域に盤踞し、三河国の松平氏と尾張国の織田氏の中間に在ってその勢力を保持していた。その勢は松平氏と概ね均衡していたと見られており、信元の異母妹・於大は天文10年(1541)に松平広忠に嫁ぎ、その翌年には嫡子の竹千代(のちの徳川家康)をもうけている。
天文12年(1543)7月に父・忠政が没するとそのあとを継ぐが、その後、お大を広忠と離縁させて斜陽の松平氏との縁戚を断ち、織田信秀と結んだ。
天文20年(1551)3月の信秀の死後もその子・信長との同盟関係が維持されており、今川氏から緒川城を攻められた際の天文23年(1554)1月には信長からの救援を受けている(村木城の戦い)。
その後もしばしば今川氏と交戦するが、永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦ののち、今川氏真との講和を信長に献言。これに際して松平元康(徳川家康)との同盟を仲介し、水野氏も交えての三者同盟となった。
その後は信長の勢力拡張を支援し、永禄年間頃までは同盟者としての存在感を示していたが、のちには被官化したようであり、元亀元年(1570)6月の姉川の合戦に従軍し、元亀3年(1572)12月の三方ヶ原の合戦に際しては織田方からの援軍として家康のもとに赴いている。
しかし天正3年(1575)に至って武田氏への内通を疑われ、家康のいる岡崎へと逃れたが、12月27日に殺害された。