水野忠重(みずの・ただしげ) 1541〜1600

水野忠政の九男。水野信元の異母弟。通称は藤十郎・惣兵衛。名を忠勝とも。従五位下・和泉守。
兄・信元に従って織田信長に仕えた。天正3年(1575)、兄が佐久間信盛の讒言によって織田家を逐われたが、その信盛もまた天正8年(1580)に追放されると、兄の旧領だった三河国刈谷・緒川の地を回復し、織田信忠に付された。
天正10年(1582)の武田征伐には信忠に従って出陣した。
同年6月に本能寺の変が起こった際には京都にいたが、難を逃れることができた。
のち織田信雄に属し、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に従軍、武功を挙げている。
天正13年(1585)9月に羽柴秀吉に仕え、武者奉行に任じられた。
天正15年(1587)7月末、従五位下・和泉守に叙位・任官。
天正18年(1590)の小田原征伐ののち、伊勢国神戸で4万石の所領を与えられた。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役においては肥前国名護屋城に駐屯し、城の守護にあたった。文禄4年(1595)、旧領の刈谷城に復帰する。
秀吉の没後は徳川家康に従うが、関ヶ原の役に先立つ慶長5年(1600)7月19日、三河国池鯉鮒(知立)において堀尾吉晴らを饗応する宴席で、石田三成の与党である加賀井重望に刺殺された。60歳。法名は瑞源院勇心賢忠。一説には加賀井重望は三成の放った刺客であり、関ヶ原の役における戦前工作だった、とするものもある。
前半生は織田信長に仕えたするものや、永禄4年(1561)頃より徳川家康に仕えたとする説があり、定かではない。しかし佐久間信盛の追放後、本貫地である刈谷を与えられたことは間違いないようである。